溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170823

掃除

 部屋の掃除スタート。掃除機で吸い上げ、乾拭きを繰り返す。エタノールを撒き、歯ブラシで軽くこする。畳が痛まないように。畳の隙間から出てきたものを再び掃除機で吸い上げる。そして乾拭き。最後にエタノールを撒いて乾拭きで仕上げる。実家に帰っている間に窓を締め切りにしていたので、若干のカビが発生していた。家に住むのは管理することも大変である。空き家だらけの日本は果たして大丈夫なのかと心配になる。それなのに新しい建物は立ち続ける。人口は減っている。それなのに建物ばかりが増えて、その家も廃れて行く。人が住まないと家も育たないのだと実感する。だから、共にしている間は家も共に生きているという感覚なのだろう。

 僕が住んでいる家は高齢のおばあさんが住んでいたらしい。とはいえとても元気で、バリバリの商売人だったらしい。25年ほど住んでいたそうだ。高齢になったことでお子さんが一人で住んでいたことを心配され、一緒に住むためにこの家を出たそうだ。僕はそうやって歴史のある部屋に住んでいることが嬉しいとすら感じる。なによりも部屋を大切に使っていたのだろうと感じられる。そういう時間がこの部屋には存在していて、それを今、引き継ぎ共に住んでいると思うのだ。僕は個人なんてものは存在しないと思う。ただ名称が個人なだけで、その背景には多くの人が関わっている。話が進んできた僕の展示もそうだ。溝井孝司展という名目ではあるが、これ自体は僕を取りまく人たちと行われる展示であるし、溝井企画の展示でもあるのだ。そんなことをみーさんと話していた。だから、そこに関わる人が個性を発揮していないの僕にとってはなんの意味もないのだ。展示することよりもそこに関わる溝井企画の人たちがどう関わってくれるかのが重要なのだ。そこが僕の喜びでもあるからだ。

 

味噌汁

 朝晩共に味噌汁を飲む。朝は昨日のあまり、夜は新たに作る。大根、しめじ、油揚げ。焼きそば付きで。うんちの調子が良くない感じがするので要検討。最初の出は良いのだが、しばらくするとねちっこい感じで、気持ち良いとは言えない感覚が身体中に広がる。フルグラにヨーグルトをかけて食べたりしている。味噌汁を飲むことも意識してみた。漢方も相変わらず飲んでいる。ちょっと様子見。うんちの出が悪いと体が重たい感じがする。最近はランニングもやっていなかったので、走ることであったり、運動をして調子を整えてみたいと思う。下半身の重要性を感じている。今日はレバーを食べたいのでもやしと炒めて食べようなんて思っている。ごぼうが余っているので、鶏そぼろと混ぜご飯にして食べても良いかもなんて考えている。最近ご飯を作るその時間がなかなか良いのだ。

 

ギター

 みーさんがギターを始めている。もともと練習していたことはあったようだが、本格的にはやらなかったらしい。コードもすぐに覚えるし、数日間やっただけでもう曲が弾けている。SUPER BUTTER DOGサヨナラCOLORスピッツのハネモノなんかはもう弾けてしまっている。みーさんは何でもやりたくなったらすぐにやる。やってすぐこなすし、出来てしまう。時にはリコーダーを吹いたり、フルートも吹く。曲も作る。僕が曲作りできるようになったのはみーさんの自由奔放に作詞作曲するその姿に影響を受けてである。それに気づけば自分で足りないものを作ってしまう。玄関マットがないと言って、布を裂き、裂き編みをする。そこに刺繍を施し特別な玄関マットが出来上がる。そこにはみーさんの世界が広がっており、誰にも侵すことのできない特別な空間がある。僕はみーさんの絵を初めてみた時そういう感覚を覚えた。この人は、まったく独自の現実とは違う空間を巧みに作り上げることができる人。その空間に人を招くことが出来るように表出させているのだと思った。僕は当時それをどうやって作り出せばいいかわからずにいたが、みーさんとの関わりの中で僕は学習し、吸収し、言葉にしている。僕の最も重要な人物は家の中で最も自由に振る舞い続けている。家の中で起こる。僕の世界は家の中で起こっている、その中心が妻であるみーさんなのだ。みーさんというのはすごい人で、面白い。一体どうしたら、前向きにここまで物事を捉え、ここまで創造的に人生を過ごすことが出来るのだろうか。それが何よりもの僕の研究対象。

 

展示

 ありがたいことに展示の話は進み、日程も決まった。しかもギターの弾き語りやイベントみたいなことも是非やってくださいとのこと。思っている以上にたくさんのことが出来そうであるのと、10月ごろに何かイベントのようなことをしたいと思っていたので、本当になるように出来ているというか、僕は決めたことは確実に舞い込んでくるので、あまり心配していないし、すべてうまくいくのだろうとそんなことを思っている。だから毎日を継続させ、訪れるその時に良いパフォーマンスが出来るよう鍛えているのかもしれない。今回はアットホームLiveをする予定。家の中の空間をそのままに出張させる。僕が作るのは結局、空間なのである。

 

飽き性

 僕は飽き性なのだと思う。ずっと同じことが続けられない。数分単位でも気分が入れ変わる。そういうことを責めても仕方がないことなのだ。気分が入れ替わりながら赴くままにやる。そういう姿勢が重要であるように思う。その時間の中で思考が駆け巡り、入り込んでくる。その状況をそのままに続ければ良いのだとも思う。我慢してというのが一番良くないのだ。気が向かなくなったら手を止める。違うことをする。ギターを弾く。今はこの時間だと決めつけない。それでも決めておく。そういう、曖昧な中を揺れながら生きる。決めているが決めない。何よりも生み出されているか。大量に生み出す。大量に行動する。単純にやり続けるのだ。これが死ぬまで続くならそれで構わない。むしろ幸福であるのかもしれない。創造の奴隷になり、ただ永遠に身を捧げ続けるのだ。僕の周りにはすごい人が沢山いる。僕が出来ないことを集中して夢中になれる人がいるのだ。こうやって才能を活かし、生きればいいじゃないかと思っている。そういうことをしたいのだ。嫌なことはしない。やりたいことを永遠にやり続ける。やってない人に否定されても話半分。聞かない。やっている人の話は聞く。どうすればそうやって築いていけるのか真剣に考える。僕はそういう家族を築きたい。家族のような関係を広げていきたい。水面下の家族。深いところで手を取り合う家族。そういう世界を深い場所で、水面下で広げるのだ。

 

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僕は溝井企画という側面を持っている。

会社のようなもの。

 

まずは溝井家から。

 

20170822

眠り

 寝ても寝ても眠い。そんな感覚が続いている。寝つきも良いわけではなく、じっくり寝てるというよりは夢をよく見ていて、朝起きると胸のあたりとか首、背中が重たい感覚がある。脚全体も昨日はムズムズする感覚があったのでストレッチして、お腹だけでなく、脚にもタオルケットをかけて寝た。足のムズムズするのは夜の冷えからくるような気がしている。寝るときになると最近は冷えると感じることが多く、暑ぐるしいと言うことがない。小さなことだが、そういうことを無視せず対処してあげることが重要なのだと最近は思っている。環境に我慢せず、暑かったら首にアイスノンを巻いたり、寒ければちゃんとタオルケットをかけて寝るとか、そういう自分の調子に対して、放っておかないこと。都度工夫しながら、心地よい状態を保ってあげるのが大切。今月は食事も意識して変えている。と言っても、インスタントラーメンは食べないと言うことだけだが。それでもやっぱり味噌汁が美味しくて、お昼に大船駅構内のおにぎり屋さんで味噌汁のセットを頼んだら、夜も味噌汁が食べたいとそんな気持ちになった。味噌汁を飲むと、体全体がほっとする感覚がある。エネルギーが湧いてくるような感覚。これまでは疲れていると量を食べて元気を出そうと考えていたが、それだと体が重くなってしまったり、ぐったりする。味噌汁とか、最近はレバーなんかが良さそうだと思っている。

 

晩御飯

 晩御飯はみーさんがぶっかけそうめんを作ってくれた。焼きなすとオクラ、そして大根おろしに鰹節をまぶす。僕が作ったお味噌汁は前菜のような感覚で飲んだ。すいかを観ながら。古いドラマだが、ところどころドキッとさせられる場面がある。穏やかに毎日が流れているように見えるが、すごく現実に寄り添っている感覚があり、一人一人の心理に共感したりする。

 

演劇

 買い物に行くと、大根を通して一波乱が起きる。レジでのやりとりに不快感を覚えたみーさんは次どうするかを考え、本当はどんな対応をしたかったかを考え始めていた。家に帰り、しばらくそのことについて話し、演劇スタイルでやりとりを始める。僕がレジのおばさん役。みーさんが再び大根を持ってくる。僕はレジで大根を打つ。100円。

 「すみません。この大根は、40円のコーナーに置いてあって、キズもあったのですが。」

 「私たちは100円でしかお売りできません。私たちは100円でしかお売りできません。」

 ここで、みーさんは涙ぐむ。どうしてですか、私が悪いみたいじゃないですか。どうしてなんですかと、若干発狂を繰り返す。

 「私たちは100円でしかお売りできません。値札のシールでしかお売りできません。私たちは100円でしかお売りできません」

 と、一点張り。するとみーさんは大根を奪い取り、その大根をへし折ったのだ。

 「あなたの心が折れないから、大根を折ってやりました!」

 ここで、演劇は終了し、僕たちはその流れを爆笑する。こうやって僕たちは日々のモヤモヤを演劇解消していくのだ。こういうことが家族間でできたら楽なのではないか。家族間でこうやって、日々起こることを対処していくことが出来たら、社会問題なんておおっぴらにするこなんてないのだと思う。家族間での問題が大きくなっているだけなのだ。社会とか世界とか大きく見ることも必要であるが、小さな単位にも目を向けることが必要であるし、そこに対して行動しているかどうかなのだ。僕は大抵物事を大きく考えるので、それがある意味特技でもあるが、みーさんはそういったことを家族という単位で、個人という単位で行動に置き換えることが出来る。だから僕はみーさんからなによりもふるまいを学び、それを真似て実践している。僕はいいなと思うものはとことん真似れば良いと思う。パクリだなんだというててもしょうがない。それでもちゃんとその人の作品を購入する。というか、本当に身につくのは購入したものなのかもしれないなんて思ったりもする。だから僕は作品に対してお金を払いたいと思う。それは、僕が学習し実践するための投資になるからだ。

 

空間

 気づいたら肩回し。首回し。深呼吸。体が固まってしまうので、はと気づいた時に取り入れる。すぐに出来るし、簡単。なんでもそうだが、始めるまでの準備に時間がかかってしまうものは、僕は苦手のように感じる。パッと気づいた時にすぐに始められることが何よりも重要なのかもしれない。衝動って一瞬であるし、そのタイミングを逃したくないと思っている。最近、人が持っている独自の空間について研究していて、それをあえてその場で言葉にしたりする。最近というよりはずっとそういう空間を人は持ち合わせていると思っていて、ようやく近頃は言葉でその空間を表出することが出来るようになってきたのだ。すなわち、それは現実的な世界で求められることでなく、多分その人自身が持ちあわせている、築き上げてきたもののような気がしていて、そういうのを持っていることの力強さを感じている。そこに少しの言葉を流し込むことによってより、形が鮮明に現れ始めるようなそんな感覚があるのだ。僕は凡人と思っているが、どうも人とは違うとも思っている人が好きなようだ。現実的な感覚と、独自の空間をどちらも持ちあわせている人。というか、普通に生きているけれどなんか違う気がするなんて思う人は多くがそうなのかもしれない。何か自分の内面にある空間が活かしきれない歯がゆさ。そういうのを日々感じながら、やり場もなくモヤモヤしているのだとも。単純な話、そうやって当たり前にやっている内面の独自の空間を芸術に置き換えれば良いのだとも思っている。全ての人が芸術家だなんて言う気もない。ただ、現実という空間とは別に空間があることを知覚しているのなら、それ自体が作品であるし、それが仕事であるし、自ら生み出す貨幣になり得るのだとも思っている。人をあっと驚かせるものだけが作品ではないのだ。文章書くの下手だからとか、絵を描くの下手だからとか、上手い下手で判断するのではなく、それをやっている最中に自分の内面に持ちあわせたその空間を立ち上げている、表出させている感覚を持ち合わせているのかが重要なのだ。評価されるために書いてるでも、描いてるでもない。生きるためにやっているのだから。

 

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墨がやっぱりいいな。

母にもらったものです。

 

今日はこれから家の掃除をして、注文していた用紙を画材屋さんに取りに行く予定。

展示のページもそろそろ作ろう。

20170821

入浴券

 目が覚めたので起きて書く。朝の入浴券をババに貰ったので朝風呂をしにまねきの湯へ。直接は向かわず、稲荷神社でお参りする。少し強いと言うか、厳しめの印象を受ける。少し、背筋が伸びる感覚があった。ハイラーク横の公園を経由してまねきの湯へ。受付のお姉さんに「今日は少し混んでいますよ」と言われ、伝えてくれてありがとうの気持ちを伝える。しかし、内心はマジか帰ろうかなと思うがそのままお風呂へ。体を流し、炭酸泉に。1時間くらい浸かる。露天風呂に行き、体を冷やしながら足元だけ浸かる。こちらも1時間くらい。じっくり浸かり、汗もいい感じに出てきたので、シャワーで再び洗い流し、風呂を出る。コーヒー牛乳を買い、休憩所で少しゆっくりする。詩を書く。一気に4つ書けた。まねきの湯を出て、散歩がてら八幡神社を目指して歩くことにする。スポーツ公園経由で日枝神社に立ち寄り、親水公園の鳥を写真に収めようとしながら歩く。少しだけだが、自然が残っている、少しだけ森の香りをさせるような場所。しばらく歩いて八幡神社到着。帰り道は新川ぞいに出て歩く。駅前を通って帰宅。部屋に戻り、鎌倉に持って行く荷物の準備をする。置いてあった絵と、白いパンツ。裾をババが直してくれた。ありがたや。あとは、細々としたものを準備しつつ、そのまま野球をしていた時に書いていたノートを手に取り読み始める。当時の監督とのやりとりに目が行き、その頃から僕は書いていて、それを使って何か内面を伝えようとしていたのかと改めて認識。当たり前になりすぎて忘れていたが、12歳から日記のようなものを書き続けてきたのかと思ったし、書くと言う時間が何か重要であると言うのを僕自身が感覚的に知っていたようなそんな気がした。父が部屋に来て、そろそろ行くとのことだったので、慌てて準備再開。絵を袋に詰める。車に乗せて、父母とともに出発。車のオイル交換のようなものをしている間にバッティングセンターでみーさんが撮ってくれた僕のバッティングの動画を見せる。「しがらみがないからよく振れている」とのこと。当時の僕の環境を一番よく理解してくれていたのは父だったのだと改めて思った。早く起きすぎたせいか眠い。車の中では少し眠むっていた。途中、鎌倉霊園が通り道だったのでおばあちゃんの御墓参りをすることになる。初めてのおばあちゃんの墓参り。その後、鎌倉の家付近に駐車し荷物を運び、お昼ご飯を食べる。キャシー中島の店に立ち寄る。母がタオル購入。プレゼントでくれた。夜の街灯の眩しさを隠す目隠しタオルとしてさっそくつかわれた。カフェに寄り、ティラミスとコーヒーを飲む。ヴィヴモンがお休みだったのでその隣のカフェ。歩いて駐車場に向かい、別れを告げて家に帰宅。眠くなったので、そのまま横になった。

 

思考

 思考しなさい。それが必要なのです。考えなさい。自らが。言葉を大切にしなさい。自らの。当てがわれた言葉を使って、さもそれが当たり前とは思わないようにしなさい。自分の言葉にしなさい。あなたは駒ではありません。視点を持ちなさい。層を持ちなさい。自らの空間を立ち上げなさい。無意識の世界を持ちさない。書くことで立ち上げなさい。説明は入りません。理解など必要ありません。ただ徹底した行動が必要であるのです。なぜ、この私は言語が失われていると焦燥感に駆られているのでしょうか。それは、学習の遅れであるように思え、思考する習慣がなくなることで、操られていることにも気づかず、駒の一部になりえる、自分の考えを言わない、持たない、どう感じているのかも分からない、その内面の麻痺こそが、奴隷意識を生みだす。考えなさい。社会に対して。自らを取り巻く世界について考えなさい。どうして答えがないと不安なのだろか。そうやって動けなくさせているのは自分自身であり、長年培ってきた、暴走とも言えるような状況を変える。それが私たちには必要である。思考を続けなさい。誰にも聞かず、自らの考えを口にしなさい。勉学に励みなさい。徹底して内面世界に飛び込みなさい。なぜ、その現実が必要なのかがわかって来ます。それこそが重要なのです。それは私たちが殺されないためであり、自らが死なないための役割だからです。自らが作りなさい。すぐにできることから続けなさい。

 

カビ

 家に少しカビが発生したらしい。そのため実家から小さめの掃除機を持ってきた。じめじめした天気が続いていたので、雨であったり、湿気に対して意識を持つことも大切になりそう。雨が降ったら、雨戸を閉める。とは言え、発生してしまっても掃除機であまり擦り付けず吸い込んであげる良いらしい。大切なのは濡れた雑巾なんかでは拭き上げないこと。それをやると逆効果らしい。風通しを意識してあげる。それでも風が通っていかない場所もあることを知っていること。ものがある場所ではそこに湿気が生まれやすいこと。

 

時間

 晩御飯は冷やし中華。母にもらった煮卵を乗せて。みーさんがジンジャエールを買って来てくれたので乾杯する。久々に二人の時間。みーさんの実家で甥っ子の誕生日を祝ったり、僕の実家に帰ったりしていたので、二人の時間というのは久々なような気がした。みーさんが最近感じていることや思っていることを話す。どうもみーさんの言っていることは、地球規模のような感じがして、世の中での仕組みとか、しがらみとかそういう当たり前の部分に問いを持っているように思えた。だからこそ、身近な人を大切にして、家族単位、個人単位に目を向けられるのがみーさんのすごいところであるし、それをいつの日も実践している。何かやろうと意気込むというよりは自然にやってしまえるのだ。どんなに社会を変えようといっても、何か変革を起こそうといっても、自分の身の回りに目を背けている人の言葉には感触がない。実際に身の回りでそういう振る舞いをして来ていないから、その言葉の中にこもる何かが足りないのだ。家族に目を向けることは何よりも重要なのだとも思える。かといってそこを変えなくてはいけないと言うわけでもなく、身近な存在としっかり話し合えないこと、自分の考えや感じていることを伝え合えないことはやはり危険な状態でもあるのだと思う。そういうことでやり場のない気持ちを抱いている人がいるということだ。僕はそういう声が無視できない。

 

 

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久々に鎌倉での朝。

少し汗ばむ陽気。

 

少しずつだが、無意識とか空間とかそういうことを言語にすることができるようになって来ている。

 

人と話して気づくこと。

ありがたや。