溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171117

じゃがいもスープ

 友人からもらった本の中にあったじゃがいもスープを作る。じゃがいもを1.5センチ程度に角切りし、水にさらす。しばらくしたら水から出し水気を切っておく。2人分だったのでじゃがいもは2個にした。300〜400mlくらいの水を沸騰させる。玉ねぎ1つをみじん切りにし、オリーブオイルを大さじ2杯敷いたフライパンでしっかり炒める。色が変わってきてしんなりしてきたところで、バターを投入。またしっかり炒める。沸騰したお湯に水気を切っておいたじゃがいもと、炒めた玉ねぎを入れて中火で20分ほどじゃがいもが柔らかくなるまで煮る。その間はギターを引いて待つことにする。20分経ち、牛乳を200ml、塩と黒胡椒を適量入れる。味を整えて、特製じゃがいもスープの完成。お好みでコーンを入れた。柔らかく煮込まれたじゃがいもが体を温めてくれて、玉ねぎの食感が好き。コーンの食感ももちろん好き。晩御飯だったので誕生日と結婚のお祝いにとみーさんが買ってくれていた赤ワインを飲む。そのためのおつまみをみーさんが買ってきてくれていた。ワイングラスはないので、お気に入りのカップに入れて飲むのが溝井家流。

 

内向き

 11月に入り外出が多かったのだが、すっかりまた内向きの感覚に戻ってきているような気がしている。内に向くことも外に向くこともバランスが大切なように思える。人と会い話したことを元にまた作り始める。そこに戻ってくれば良いのだと思えた。何でも量を知ることなのだ。月何人くらいと会うのがちょうど良いか。全く合わないのも、今の自分自身にとっては不健全であり、定期的に外に出て話すこと、言葉を発することが大切であるような気がしている。その話している音を確かに聞いているし、それは言葉になるならないが重要なのではなく、何か内面にある言語化されていない部分を手繰り寄せようとする行為である。そういう対話のようなことが好きな人とはどんどん会えばいいし、そうやって深めていくことでまた生まれてくるものも変わってくるのだとおもっているのだが、結局それは変わっているのでなく、ただ何か内面にあるものに気づき、その存在を受け入れたということである。それをどう生み出していくかは日々の訓練によるものでしかないのだ。それは本当にそうだ。続けるしかないのだ。積み重ねるしかないのである。そのことを抜きにして、語ってはいけないし、人と語り合うことでそうやって自分自身の逃げ場をなくそうとしているのかもしれない。それまではそんな縛りなど必要はなく、ただ自由に楽しくやりたいと願っていたが、結局その楽しさも、自ら縛り付け、生み出そうとするその苦しみすらもどちらも楽しみであり、喜びに変換していくしかないのである。それもなしに、ただ空想だけの行動の伴わないものが氾濫してはいけない。戒めるのはいつの日も自分自身であり、そして自由にすることもいつの日も自分自身なのである。どちらも自由に行き来することが出来ることが重要であるし、そのどちらも内在しているのだから、消し去ろうなんてしてはいけない。この書いている文字もまたいずれ変わり始めるのである。結局いまこのことを本当に考えているのかと言われれば答えに困ってしまう。ただ今は自動執筆的にそういう戒めのような言葉を自分自身に投げかけているのであり、それは確かに私にとっての真実であるし、他人にとっては空想、妄想以外の何物でもない。他人のことなど一生理解すること分かりあうことなどできない。自分自身の空想を現実的に落とし込んでいくしかないのである。その空間と空間を混ぜ合わせたものを検証し、対話を繰り返すしかない。それが人と人が出会う理由であるように思えるし、それは偶然道端で出会うまだ知らない家族との出会いである。それこそが出会いで、最も偶然とは言い切れない必然の中で生きているのである。

 

受け入れ先

 彼女は現実に現すといった。赤と思えば赤が現れるし、青と思えば青が現れるといったそんな具合である。それは至って空想的であるが、現実的な空間であると言える。落とし込んでいるのだ。思うことについてそのまま現実に現しているだけなのである。これは妄想ではないし、妄想でもある。ただどちらも真実であるが、それが彼自身の真実と言えるのかは疑問であった。彼が思い描くことと、彼女が思い描くものは別物であり、全く同じということはありえない。ただ彼女が感じているように、彼が感じているように世界を模倣することは出来るのかもしれなかった。それをどちらの口からも真実であると言い切ることは出来るのだろうか。これは彼にとっては真実であり、彼女にとっての真実である。しかし、もうその時点で彼らにとっては歪曲された事実であり、彼女らにとってもまた歪曲された事実であるのだ。彼と彼女が語っているのは彼と彼女が見ているほんの一部に過ぎず、すべての情報を得ようとするのは不可能に近いのかもしれなかった。しかし彼、彼女は確かにその空間であったことを認知、感じ続けているし、それらは触覚として機能する。確かにその空間に触れているのである。それは肌であるし、肌での対話がそこで広がり続けるのである。肌による情報、嗅覚を用いた情報、口に含んだその水から伝わる記憶、それらの何もかもをリソースとし転用し続けるのだ。それが彼の作っていたコラージュ作品であったし、彼の家自体もまたコラージュによって生み出された空間であったのだ。そして彼自身もまたコラージュされた衣服を纏い、様々な情報を組み合わせて出来上がっているのである。まるで何もかもを自分自身だと勘違いしているようだが、それはまったく違った見解である。何もかもがコラージュされた人格なのであり、彼の中には何人もの男と女が存在しつつげている。それを自分自身であると声高らかに宣言することが出来ないのである。それをしてしまった時点で、その何十人にも及ぶ男女は行き場をなくし、その場で立ち尽くし終いには暴動を起こしかねなかったのである。しかしそれは決して暴力的な解決ではなく、ただ反応として現れるだけなのである。その男女の行き場、その生物たちの行き場を殺してはいけないのである。なくしてはいけない。多重に、多様に用意するべきは受け入れ先であるのだ。

 

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じゃがいもスープ美味しかった。

余りのスープにパスタを入れて食べる予定。

 

今日も油絵で描く。

その前にお昼ご飯たべよう。

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溝井孝司(Koji Mizoi)

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20171116

無意味さ

 彼はやっていることの無意味さを考え始めていたのだが、そもそも意味や理由など必要はないはずであり、ただ運動として書くということを続けているだけなのであるが、その文章が至って成り立っていないことや、崩壊していることからして、それが何の意味があるのか、誰が読むのかと考えている。そもそも誰のためであるとか、そう言ったことは無意味な考えであるし、なぜならこの行動自体を続けざるを得ないからであり、ただ行動しているに過ぎない。実際にこうやって書くことで自らの考え、言動、感覚を眺めることができるし、その効果効能はただ単に自分が落ち着くことのできる、ただ何か価値があると感じることのできた空間と時間である。ただその空間を作るために文字は扱われるし、最も手っ取り早い方法としてただ文字を文章を選び取っているだけである。「こんな書き方して何か意味ありますか?必要ですか?こんなところに書き続ける必要もないのではないでしょうか?どうしてやっているのですか?なんで?理由は?教えてください。でないと彼は落ち着くどころか、また渦の中へと身を投げてどこに出口があるのかとさまよい始めるのです。それが許されるのでしょうか?そうしていいはずはありません。私は心配しているのですよ。間違いがないように、失敗がないように。そういうことを味合わせないように。ただ監視しているだけなのです。それなのにどうでしょう。結果はこれです。また身投げ、渦の中に飛び込み出口のない渦へと飲み込まれて行くのですから、たまったもんじゃないですよ。」語りかけているのは親だった。それは彼の親ではなかったし、大衆の親、すなわち親という概念による親だった。その親は失敗や間違いを子供にさせてはならないと、その恐怖政治を決行する。とにかく監視の目を緩めることなく、何ひとつ間違えてはならないと言った表情で彼を見つめ続ける。そして行動の一つ一つを正していく。右手の動きが違う。箸の持ち方はこうであるとか、歩き方はもっと姿勢を正さねばならないとか、生きることそのものについて、何もかもの失敗がないようにと手取り足取り教え続けるのだが、それを言われ続けている彼はすでに失敗を恐れ始めていたし、いつまでたっても失敗がなくならないことにもう限界を感じていたのだ。これは呪縛である。これこそが呪縛なのだが、それを彼自身が生み出しているとは思いもしなかったのである。親自体をも自らが生み出し、その概念の元で彼は右往左往しているのだ。ただフラフラとしていた。その先ではいつも親の目が光っている。これはまったく側から見れば違和感のない光景に成り代わっていた。

 

正しさとルール

 正しさやルールによって彼の中で不安が生じ、そこにいる監視の目が気になって仕方ないその状態が未だに続いているのだが、果たして終わらせることはできるのだろうか。これは彼の考えではないし、ただ流れてくる言葉を書き連ねるという運動に過ぎない。しかし、これは本当に流れて来ているその純粋な思考そのものなのかと言えば、人目に触れることを気にし、それゆえにそこに優劣をつけたり、検閲が入り込んでいるはずである。彼はそれではならないと強く思うのだが、そう強く思えば思うほど、また強い優劣の関係や、検閲が入り込み彼を混乱させている。これは自らが作り出している混乱と言っていいし、精神科が言っている病名というのもその概念自体に押し込めるための概念であり、しかしその概念自体に思考停止し名乗りを上げて、聞き入れているのも本人たちなのであり、そういったものすらも自ら作り出すという創造性が必要であり、これは性質や個性と言えるのかもしれないが、もはや有名人であるとか著名人であるとかその振る舞いをどれだけ取り入れようとしても本人にとっての振る舞いというものがあり、それは滲み出ているのだから、どうして何か表現することが正しいとか、素晴らしいとばかり言えるのだろうか。そうではなくおかしな表現をすることもなくただ存在していればいい、それだけの人物もいるのである。わざわざ何か強い意思表示をする必要があったのだろうか。彼女が描いているキャンパスから伝わってくるのはその優しく、静かな意思表示であり、決して自分の優しく包み込むその強い意志を誰かに同調させようとすることもないのである。彼女の絵から溢れるその優しさは「あなたはあなたのままでいい」という強いメッセージが込められていると彼は感じていたのだ。

 

自動執筆的日記

 ここに書かれているのは日記と言えるほど日記ではなく、至って妄想的な日記であるが、その妄想すらも内包させるために書かれる自動執筆が行われる空間になっている。これは彼自身が生み出した空間であり、ここで何か出会いを求めるとか、つながりを求めるというよりは、ただたんに自分の空間を文字によって生み出すための訓練としての空間であり、その訓練を公開することに意味があると考えているのだ。完全に乖離した人格を活かす、その受け皿の作り方を公開しているだけであり、ここに書かれているものには何の意味もない。ただ空間が生まれているに過ぎない。その訓練。なぜその訓練は必要か。受け入れ先を自ら作っているに過ぎない。自らその施設を生み出し、その施設はいかにも伸びやかで、しなやかであり、自由な創造性に富んでいたのである。その空間こそが彼の求めている空間であり、彼はその空間を現実で作ることよりもまずはこの仮想空間として生み出すことで、生きるための術、そして知恵を身につけ、これを伝えようとしているのかもしれない。この方法に意味があるとかないとかそういう次元を語るのではない。しかしその次元とを行き来することが重要なのである。何か違う空間、層が同時多発的に存在し続けている、この現実の脆さを知ることが重要なのである。この空間についてと、同時多発的に生み出される層への瞬間移動の実態を今この瞬間描き続けるのだ。しかしこの瞬間というものを捉えることはできず、これは追いかけている状態なのか、追いかけられている状態なのかをどちらかに区別することなどできないのである。しかし、この時間に生み出された。この決められた文字数の中で生み出される空間にこそ内面の隠された衝動を発見するために必要な要素であるようなのだ。

 

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もう少し普通に(笑)日記的に書く場所作りたいなと思ったのだけどTwitterでいいかと思った。

 

ここでは文字を使って自分の空間を作るということをやっているので、もう少し事実的にあったこと、やったことを書きたいなと思ったのでした。

 

あるものでどんどんやろー。

 

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20171115

年越し

 朝になると冷え込みが強くなっていく。お腹も若干下し気味。また夢で交通事故に遭う。車に乗って事故にあったり、ブレーキが効かなくなったりする夢をよく見る。昨夜は仙台麩鍋を食べた。味がしみていて美味しい。〆はうどんで。最近は油絵の具で描いた。進んでいなかった織りも進む様になってきた。スーパーでお餅を眺めていると年末のことを考え始める。子供の頃は友達と朝まで遊んだり、カラオケにいったりした。次第に車に乗って初日の出を見に行ったり、そういう過ごし方が当たり前になって行ったが、段々そういうこともしなくなった。なぜかお餅を見たら物悲しい気持ちが襲って来た。ここ2年間はみーさんと過ごしていることを思い出した。一昨年は横浜の大桟橋で年越し、そのまま歩いて神社に行き、朝まで一緒に過ごした。何というかもうオールはできないと思った。もともと朝まで遊ぶみたいなそういう雰囲気が苦手で、絶対に途中で寝てしまうのだ。起きていられない。体にストップがかかったよう眠ってしまう。それでも何度もあったその時間を思い返すと、そこに居合わせることは楽しいとも思っていた気もするし、ただ体質的にあっていなかったのだと思った。昨年は鎌倉に越してきていた。引越しが終わったばかりでバタバタしていたが、みーさんと二人で鶴岡八幡宮に年越して出かけたがあまりの混雑に一礼だけして帰ってきた。あれからもうすぐまた1年が経つことや、またなぜか物悲しい気持ちにさせる年越がやってくるのである。

 

大阪

 彼は昨年、大阪に行き、モデルの仕事をすることになっていた。デザインされた着物を着て、決められた動きをする。そのための練習なども行い、本番を迎えたのだが、今思えば完全にその窮屈な状態が鬱を誘発していた。身動きが許されない、自由を許されないその環境にもう言葉すら出なくなっていたし、その日はもう誰とも会話が出来なかった。言葉が出てこなかったし、喋る気も起きなかった。打ち解けようとも思えないし、もう限界だったのだ。そんな記憶がふと蘇っていた。それが彼の望んでいた環境には思えず、むしろその窮屈さに限界を感じた。彼は次の日奈良に向かっていた。奈良駅に着いた彼は、公園を歩き鹿の群れを眺めながら、春日大社に向かっていた。一人で春日大社に向かう緑道を歩く。森の中にさまよい込んだ。ちょっとした山道を登り長椅子に腰掛けた。少し雨が降っていて、木々の匂いが身体中を包み込んでいた。彼はそれ自体を纏うことに喜びを感じていた。

 

アクセル

 徐々にアクセルを踏んでいる。急に踏んだところで空回りしてそれは暴走的に体に乗り移るのだから、じっくり馴染ませれば良いだけだと考えていた。どうしてそんなに強くアクセルを踏みつけることばかり考えているのだろうか。しまいには、ブレーキは故障し、もう歯止めがつかなくなり、ハンドルを何とか切ってはいるが、スピードに乗り切ることは出来ず結局振り切られてしまうのだ。慌てて踏んだところで、操作はできない。ただボロが出る。落ちていくそのメッキに何の意味があったというのか。それは素直になるということなのだろうか。またこれまでと違った思考が入り込んでいることは確かであり、これまで正しいと思っていた考えを何もかも改めなくてはならないのだから、そうやって流れに合わせて変化していくことを楽しむしかないのである。そしてまたいずれ変わる。どうせ変わってしまうのだ。点と点を飛ぶ。その間には線があるが、点と点を瞬時に飛んでいるのだ。瞬間移動であるのだが、その飛び移るその瞬間の私はどこに存在していたのだろうか。飛び移るその瞬間に私は死んでいるし、その間は私ではない何者でもない、その人物に出会うことになるのだが、今はただこれまでも存在していたその人物が改めて登場し、彼はセンチメンタルであるし、何もかもを物悲しいと感じてしまう性質があるのである。これは季節による影響なのかもしれない、定期的に確かに訪れる感触であるのだ。自分の未熟さを実感し、そして寂しいと感じているのであり、それは心細さだったのだ。そうやって彼の胸に起こる反応は、これまでの鬱々とした苦しさとは違い、心細さのような、その物悲しい感覚なのである。

 

作戦会議

 呼吸することで乖離させる。まったく別の存在としてそのままを確認する。ただ内包しているのだから、今は何が出て来るのか、ある意味ランダム的な状態であり、ただ観察することで共存を試みるのである。対話を求めようとしてはいけないし、最も対話すべきは自分自身であり、その話をもっとも聞くべきであるのだ。彼ら彼女らはいつの日も語り続ける。彼ら彼女らは語り部としての役割を単に全うしているだけであり、私自身はただそれを書き記す役割にすぎず、今書き記しているのは私であるが、語り続けているのは彼ら彼女らであり、そうなるとこうやって書いている人物も彼ら彼女らであることを否定することはできないのである。これは作戦会議であるのかもしれなかった。単純な話で、答えを知っている本人にただ聞いているのである。そしてその答えを聞き出してはまたお互い演じる。語り部と聞く耳での共謀であり、それは悪事ということはできなかった。ただ単にお互いが演じ続けているだけなのである。さもそうでなければつまらないと言ったように、ただ単に演じることに意味があると言えた。結局我々は演じ続けているのであり、何もかもをその振る舞いによって決めている。それは今日着ている服からも露わになるであろうし、その身にまとった漂いすらも演者としての役割であるのだから、ただ仕事を全うしていると言えるのだ。今こうやって混乱したままを、何の意味もない言葉を書き連ねているが、これは実際に語り部たちが何の気なしに口を開いている独り言のようなものであり、ただ独り言が飛び交っていることが混乱を生み出しているのだが、それを否定とも迷惑とも取らずただ出来るだけその中で集中することに専念すべきであり、何も黙らそうとすることはないのである。そんなことをした瞬間にまた新たな問題を自ら見出すことになるのだから、そんなことをわざわざ自発的に行うことはない。ただ語り部と、聞く耳、そして書記についての役割をそれぞれ全うしていれば良いのである。

 

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徐々に慣らす。

慌てないこと。

 

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