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溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

溝井孝司のにっきです。児童文学みたいな人が書いてます。

面食らったことと僕たちが家族であること。

念願叶ったラーメンで面食らったこと

 お昼過ぎに「太陽食べたくない?」とみーさんに聞いてみる。みーさんはすぐに同意をしてくれた。「太陽」っていうのは「太陽堂」っていう鎌倉にあるラーメン屋さんのこと。先週の日曜日、同じように「太陽食べたい!」ってことになって稲村ヶ崎から江ノ電に乗って太陽堂に向かったんだ。到着したのは15時半。その時はスープ切れであえなく断念したんだ。前にもそのことは書いたんだけど、兎にも角にも僕はその店主の振る舞いが大好きなんだ。もちろんそのラーメンもね。 

kojimizoi.hatenablog.jp

  それで僕たちは念願叶って太陽のラーメンを久々にすすることが出来た。みーさんは「このラーメンがなくなっていくと少し寂しいね」と言う。そんなことも考えずにひたすら、麺を汁に絡めてすすり「うめぇ、うめぇ」と唸っていた僕は、ちょっと面食らったんだけどね。そう"麺食らってた"だけに。そして、待ちに待ったラーメンを食べ終えて店主と少しばかりお話をした。スープ切れの日に僕とみーさんに起こっていたこととかね。店主は笑ってくれて「またきてね」とにこやかに僕たちを送り出してくれた。

 

訪れた出会いで面食らったこと

 その後、みーさんの要望で鎌倉スワニーに向かったんだ。鎌倉にある洋裁屋さん。主に生地を取り扱っていて、服作りをしている若い学生から自作の服をまとう鎌倉マダムまで幅広く賑わっている。そんな中で素敵なショールを肩にかけている奥様が目に止まった。みんなもこう言う時ってあるよね?何か目に止まること。「あっ、いいな」って思う瞬間さ。それは一瞬のことだからあまり察知されないこともあるけれど、ぼくは「あっ、いいな」っていう瞬間をすごく大切にしている。薄い紺色の糸で織られたショールの端には、たくさんの藍で染められた古布が編み込んであるんだ。そしてよくよく顔をのぞいてみると見覚えのある顔だったんだ。僕は「多分…」と思ってみーさんに伝えた。するとみーさんも同じように見覚えのある人だと思っていたらしく、タイミングを見計らって声をかけたんだ。すると素敵ショール奥様は僕たちを見てにこやかに「あら、こんなところで!」って驚いて喜んでくれた。どうやら鎌倉で開催されているお友達の展示に来ていたようだ。北鎌倉で綿を育てている人たちがいるんだって。そこで買った綿を紡ぐための道具のスピンドルや茶色い綿なんかも見せてくれた。そして、初めてあう友人の方に僕たちをこう紹介してくれたんだ。「おふたりとも芸術家なのよ!」ってね。そう、この素敵ショール奥様は僕が一時期通っていた、手織りの工房の会員さんで、みーさんが開催した個展にも来てくれたんだ。その時のみーさんの絵や立体の作品、僕も展示させてもらった10mほどの織り布のことも覚えてくれていた、「とても感性豊かなのよ!」なんてこともお隣にいた友人に伝えてくれていたんだ。お隣のご友人は今日あった展示のことを懸命に僕たちに伝えてくれていたんだけど。そんな突然に訪れた出会いで思いがけず嬉しい言葉をかけてもらい、ぼくは再び面食らったんだ。素敵ショール奥様が綿見に来てただけに。 

 

駅のホームで面食らったこと

 面食らってばっかりの日。いつも出会いは突然。毎日多くの人とすれ違う間にも出会いのチャンスは眠っているんだから。そういうことってあるじゃないか。すれ違いざまなんだか気になるぞってね。そして声をかけてみること。僕はみーさんからそんなことを学ぶ。みーさんは気になったらとにかく声をかけるんだ。そして、その数分が終わりそこであった出会いについて振り返る。一期一会の出会いについてね。そこであった些細な一言が人を嬉しくしたり、喜ばせることが大いにあるってこと。昨日は本当にやる気になって、そのままやらずに長引いていたみーさんの創作のためのテーブルを買いにいったんだから。いつもなら電車に乗ることすら僕は拒んでしまうんだけどね。心底人の力になりたいって思った時、人は自分の損得勘定なんてどうだってよくなるんだ。だってそうだろう?電車に乗りたくないとか、人混みが嫌だとかそんなの大した問題じゃない。目の前の人が動き出したら、とことん力になるってことさ。家族ってそうだろう。僕はそんな家族がたくさんいると思っている。実際に暮らしたりはしない。共に生活をすることもない。だけどね、深いところでは糸のような水路のようなものが僕たちの世界には張り巡らされている。屋根なんてなくたって生活している。日の光を共に浴びている。月光浴だってする。星だって眺める。それは目には見えないけれど、しっかりと存在を確認することが出来る。深いところでは皆が家族なんだと思っている。一夫多妻制とかそんな古臭いことじゃなくて、男も女も関係ないんだ。みーさんは僕と結婚する前に「俺たちに性はねぇ」って言ってくれた。これは僕が男らしくあれないということをぐちぐち悩んでいた時の言葉。そう「俺たちに性はねぇ」んだ。男女とか古臭いことやめて、人同士で家族になろうってことさ。そうしたらさ、もうその人の輝かしく見えることにしか目がいかなくなる。僕はそう。いつだって人の輝かしいことにしか目がいかない。そんなのないって言う人は嘘つけって思う。嘘ついちゃいけないんだ。それは自覚しないといけない。嘘をついている限り発光することはない。光が現ることはないんだ。すなわち発行もしない。貨幣が現ることはないってことさ。そうやって「はいよー!はいよー!」って言いながら駅のホームケンケンみたいにしながら歩いてたら5円玉拾って、僕は結局面食らったんだけどね。

 

 

https://www.instagram.com/p/BTbTb8eBCqe/

アイスカフェラテとわたし。

わたしという点の周りに星が溢れている。

 

僕たちは家族だ。

共に暮らすことのない、無意識の家族だ。

 

混沌とした世界が文字になること

海の砂浜を観察し、大地から受け取ること

 海に到着すると、砂浜の様子を観察するんだ。どんな風に砂が溜まっているかとか、どれくらい湿っているかとかね。砂浜って乾いていると足が沈んでしまったりする。それは結構楽しいもんだ。ふかふかしたクッションの上を歩いているみたいでね。でも雨が降った日の砂浜は様子がそれとは違う。踏みごこちが全然違うんだ。少し固まって、地面の中に何か潜んでいるような気持ちになる。僕はその硬さに緊張感を覚えるんだ。もしかしたら、落とし穴があって、そこに何かの生物が潜んで僕を待ち構えているんじゃないかってね。大地はいろんな顔を持っている。だってコンクリートの下ではきっと土が呼吸できずに悲鳴をあげているでしょう?土を踏みしめる時って大地と繋がっていてなんだか嬉しい気持ちとか、堂々とした気持ちになるんだ。僕はきっと足の裏からも何か大切な情報を受け取っているような気がした。そこに埋まっている何か。それは、飛ばされてきた砂の記憶かもしれないし、ずっとそこにいる土の記憶かもしれない。草木の根っこから伝わる生命力かもしれない。その奥に眠っている死者の声かもしれない。そう、だからね足元から伝わってくることにも意識をしてみたいって思ったんだ。そう、今書いていてね!笑 僕は見えてくることや聞こえてくる音に敏感なんだ。そこから声を聞くんだ。こんな風に言っているんじゃないかってね。それは警告のようにも聞こえるんだ。「人間は何をしているんだい?」ってね。風が吹き、木々がこすれる音に耳を澄ませる。それが歓迎されているときもあれば、そうじゃないような時もある。静けさだってそうさ。静けさの中には多くのメッセージが存在する。肌で感じる言葉。鳥肌が立つことがあるだろう?あれだってそうさ。肌で感じているんだ。僕は、日常の中で起こる偶然やたまたまから受け取る言葉を、こうやって文字にしているんだ。だから、あまり論理的とは言えないかもしれないよね。でも感じていることを言葉にするっていうのはそういうことからスタートだと思うんだ。そう、今日は昨日と違って全く違う自分になってしまったんだから。もしかしたら死んでしまったのかもしれないね。だってもう昨日の僕が感じているように戻ることが出来ないのだから。

 

どれが人間かなのかは分からないこと

 ただ余韻のようなものは体に残っている。あの海で歌っていたような感覚とか、そのなかで気持ちよく声が体の中を抜けていった感覚が。心地よくないことだってある。僕はSNSをあまり見すぎると心地よくない。淀んでくるんだ。体がね。体の中にいろんなものが入り込んでくる。もうとめどなく流れてくる。混乱を生む。そう僕は混乱しているんだ。いま、世界に混乱していまっている。私は混乱をしている。混沌としてしまった。僕は水のようなんだ。ずっとずっと川のように流れ続ける。海のように押し引きを繰り返す波を感じる。静かな湖のようでもある。雲になってどこか遠くに飛んでいく。流れていく。私は水である。みんなは人間だろ?っていうんだ。体の中には水があるんだ。胃だって、筋肉だって、膵臓だって、骨だって、目だって、舌だって、肩甲骨だって、髪の毛だって、みんな人間さ。そこにいる水も人間でそれは僕ってことになる。僕が持っているのだから。本当にそうなのか。人は何も所有することはできない。お金も土地も人も。なにひとつといって所有などできないんだ。勘違いしてはいけない。僕は人間ではない。脳に支配されている。いや脳が人間だ。目が人間だって可能性もある。そこにいる松の木は?あなたは誰?松の木は何も言わなかった。

 

受け取ったメッセージは津波によって流れていったこと

 図書館で借りてくる本でも時折同じようなことが起こる。見知らぬ誰かからの伝言を受け取る。読み進めるページには線が引いてある。これは誰からの伝言。長い年月をかけて僕に届けようとしてくれたメッセージなんだ。本の中にも誰かの余韻が潜んでいる。それは遠い誰かの声。そのメッセージを文字にし、音にする。水道管。水を流す。一方向に懸命に流す。流しすぎた情報は逆流した。声は戻っていった。適切な量を知らなくてはいけない。これはインターネットだ。止めなくてはいけない。情報は一方的に流れてくる。洪水だ。もう飲み込まれてしまった。津波が押し寄せる。もう止まることはできない。お前の行いが全てを引き起こした。津波は飲み込んでしまった。私の体を。大切な本を。長い年月をかけて伝えられた、あなたのメッセージを飲み込んでしまった。僕は大いに反省した。反省などできないがしようと試みた。申し訳ないと思った。遠いあなたに。本当は思っていない。自分を慰めたいのだ。ただそれだけのこと。津波に飲み込まれたのは、本だけではなく、大切な想いであった。そう思ひ出。受け取った言葉。伝え続けてきた想い。それすらも流れた。何もそこにはなかったように。私の中にあった大切な言葉を流していった。引いていった波の中にも、大切なものは残っていなかった。きっとどこかの誰かの元に流れて言った。それかきっとどこかを漂っている。沈んでいるのかもしれない。きっとどこかにある。水の中に。

 

 

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頭の中が混沌とし始めた。

書くことで流す。

 

昨日とは変わってしまう。

それも良いか。

グルグルした思考の抜け道はドイツがキーワードだったこと。

頭が冴える時期になって考えること

 頭が冴えて目覚めがいい時期っていうのがあるんだけど、そんな時は5時くらいには起きて書物を始めるんだ。だって、眠ってる間もいろんなアイディアや想像が頭を駆け巡っているんだから。それまではどうも気が乗らず体が動かないことが多い。あまり人にも会いたくないし、起きるのが辛い。それに鬱々とした気分がしばらく続くんだから。その時期は本当に辛い。弱々しく低空飛行を続けている。墜落寸前の時だってある。それでも何とか持ちこたえようと、手を動かす。手を動かすまでにはものすごい葛藤と思考がグルグル回る。大抵、お金がないとかこんなことしても無駄なんだってことかな。みーさんにも迷惑をかけているとか、きっと誰かにも悪口を言われているんだろうとか。すごく貧しい気持ちが襲ってくるんだ。この状況が、いつまでもいつまでもこの貧しさが続いてしまうってね。毎月の支払いに追われ続けるんだ。この終わりのないループで生きていくことに何の意味があるのかってね。と、そんな時期を抜けると今みたいに朝早く起きては行動をし始めるってこと。こういう波のある状態が、もうしばらく続いているもんだから、精神科に行くと「双極性障がい」なんて言われる。どうも本人は気づきづらいと言われる。なので、あまり自覚はない。そりゃちょっと前は散財してしまった時期もあったけど、今は本当にお金もないしね。そもそも使うお金がないってこと。笑 でも、調子がよくなるとそんなお金とか社会とか、経済とか、政治とか、世の中のことに対して不安なんてなくなるんだ。そりゃあ、怖い時だってあるけれど、そういう不安が和らいで、自分の意見や考えをパキパキ答えられるようになるってことかな。まあ、例えそうだったとしても自分のことは自分でしっかり研究して乗りこなそうってことさ。人任せにせず、ね。自分にある波や症状を知るって何より大切なこと。だって、この体で生まれてきてるんだから。それに僕は薬はあまり飲みたくないと思っている。だからいまは漢方で症状を観察しているんだ。いま飲んでいるのは半夏厚朴湯。不安感や緊張感、抑うつ状態、喉や胸あたりにつかえのような違和感を感じる人に効果がある漢方薬だそう。飲み始めて、1ヶ月くらいだけどいまのいまは目覚めもいいしだいぶスッキリしている。昨日まではどうかと言われるとそうではなかったんだけど。だから、まだまだ分からないことだらけ。研究が必要ってことだよね。僕は自分という分野に興味があるからさ。それが芸術だとも思うしね。

 

思考の抜け道を見つけること

 そうそう、それでなんで頭が冴え始めたかというと"ドイツ"ってキーワードがとてもピンときてグルグル回っていた思考回路からの抜け道を見つけたんだ。最近、素晴らしいなって思うのは児童文学って分野。子供に向けて書かれた本で、心の教育と言えるような内容が盛り込まれている。僕は子供時代にそういった本と、全くと言っていいほど無縁だった。だけど、今こうして出会い読み始めるとそこには子供として大切なことがふんだんに盛り込まれている。すなわち、それは大人になっても本当に大切にしなくてはいけないこと。僕は子供時代を大人になるために生きていたように思っている。子供を全うするために子供をしていたのではなくて、大人になるための子供をしていた。そんな時から周りの目を気にしてね。だから、子供であるとは何かっていうことを改めて見つめているんだ。そこで行き着いたのが児童文学だった。みーさんからのオススメもあったんだけどね。いま出会っている本の中でどうもドイツとの繋がりを感じている。僕はドイツで生まれている児童文学が好きでね。ケストナー、ミヒャエルエンデ、プロイスラー。そして、ドイツの近代の時代背景っていうのがずっとずっと気になっていたことも。だって、ヒトラー率いるナチス・ドイツが滅亡したのは1945年。ということはまだ100年も経っていない、そう遠くない昔の話ってことなんだ。そう。それでね、その時代を生きていた人たちの作品にすごく惹かれている。それにヒトラー自身にもね。ヒトラーは元々、美術家、建築家を志していたいということ。そのことにハッとしたんだ。その人が独裁者となり、多くの人々を殺した張本人になり、そして退廃芸術という芸術観に行き着いたこと。ヒトラーはトラウマや劣等感を嫌った。ヒトラーの心の中にあったものは?それは、もしかしたらトラウマや劣等感だったんじゃないかってことね。あの大量虐殺を生んだ根本にあったものは。後世に残る作品を作り続けた人たち、そして後世に語り継がれる歴史を作った人たち。だから僕はドイツを知らなくてはならないて思ったんだ。せねばならない。これは使命感。体が疼くから。やりたいことなんてそんなもんでしょう?理由はないんだ。体が疼いたらやるんだ。だって、それが一番の理由さ。それとね、僕の中にもずっとずっとトラウマや劣等感があるんだ。だから芸術に行き着いたし、創造活動を始めたんだからさ。

 

心を知るには芸術が最善だってこと

 そう、そんなことを考えていたら僕はドイツで個展をやりたいって思ったんだ。いま作っているものをまるまるっとね。だって、僕が創造活動をしている理由にはドイツの児童文学の影響を大きく受けていることがわかってきた。それに、きっとなんか伝わるものがあるんじゃないかってこと。美しさとか、計算ではなく、心の内が衝動が。そう、心の内と衝動。僕が表現するべきはそこなんだ。だから続けるしかないんだ。表現力をつけていかなくてはいけない。そう考えたら、毎日続けることなんて簡単でしょう。だってそれは使命感なんだからさ。結局やるしかないってことさ。それはいつからだって始められること。これはみーさんに教えてもらった。「芸術はいつからだって始めることが出来る」ってね。どう?いい言葉でしょ。そして、自分の心を知り、人の心を知っていくことに、本当のことを伝えていくには芸術が最善の方法だって思っている。文章だって、絵だって、音楽だって、料理だって、語りかけたってなんだっていい。そこに自分自身の心の内が表現されているならね。

 

 

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この日記のスタイルになってから継続出来ている。

毎日ここでは2,000字は書けてる。

1ヶ月くらい人目につかないところでとにかく書いていたので、苦なく続けられています。

 

結局、自分の言葉が必要だ。

だったら書かなきゃいけない。

そりゃそうだ。