溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171019

 また雨が続くらしい。同時に寒さも再来。みーさんの手がすっかり冷え切っていて少し心配になる。冷え性は治ったと言っていたが、やはり寒くなると体は冷えてくるようだ。晩御飯は温かいものにしようなんて、もう晩御飯のことを考え始める。多分、鍋か何かになる気がする。寒い日は温かいもの、温めた野菜をしっかりと取るのがいいらしい。最近、スナック菓子やインスタント食品を取ることがほぼなくなった。前までは食べたいとすら思ってしまっていたのだが、最近は自分でご飯を作る機会も増えたからかもしない。そういうことがまた精神的にも安定させるのではないかと考えたりする。また書くこともその効果を持っている。今この瞬間も、全く別の場所で書いている時も精神を安定させているような気配がある。多分そうなのだ。治療となっているのかもしれない、不安や絶望。それに怒りや興奮。どちらに行きすぎることもなく、ただ機械のように文字を生み出し続けることにその効果があるように思えている。つまらない文章でなんら構わないのであり、これは医術である。これこそが治癒。自己治癒。自己診察。すべて自分で生み出すことが出来た。とにかく手を動かすことでそういう状態を作り出すことが出来た。そこには環境というものも関係しているのだろうか。最近は家の中であまり書かない。以前はほとんど家の中で書いていたが、最近は外に出て書くようにしている。図書館やカフェを利用する。そうすると家は絵を描く場所になる。外で書き、家で描くことでちょっとした切り替えが出来ているのかもしれない。部屋の中が寒いこともあるのでじっと書いていることがきつかったりする。また最近また文字に触れたいという欲求が生まれている。図書館でドゥルーズガタリの本を何冊か借りる。難解であるが重要なことが書かれているような気配を感じている。私は学者ではないのかもしれないがそういう文に触れたいと考えるのだ。もっと集中できるのだと考えている。もっと自分を深めることが出来るのだと考えている。最初は少しの抵抗があるのだろうが、それでもただ向き合い続ければ良いのだと思えるのだ。本を読むことは出会いなのかもしれない。死んだ人と出会える素晴らしい装置だ。その瞬間が本には刻まれる。そしてまた変わり続ける。何もかもが変わり続ける。同じことなどないのだ。だから私はいま外にいる。これまでだったら内にいたのだろう。そうやって変わっていけばよいのだ。私は私自身の変化についていくのがやっとなのかもしれない。それで十分であるとも思える。家の中は絵を描くスペースと化している。これもきっと変化なのだろう。その時の状態を反映すればよかった。何よりも救いであるのがみーさんという美術家がいつも近くにいることなのかもしれない。みーさんはいつの日も何かしらを自ら作り続ける。あり合わせのもでなんでも作る。そのチャーハンが一番美味しいことは共通の事実であり、それがみーさんの才能なのだと思える。新しいものを購入するのではなくあるもので素晴らしいものを生み出し続けるのだ。日々出産が繰り返されているのかもしれない。その度に喜びをあらわにし自分自身を天才であると認識しているようだ。その自尊心の育み方が私にとっては大変重要な役割を果たしているように思えた。自分自身の才能に溺れることも過信することもなく、ただ自分は素晴らしい、天才であると素直に認識できるみーさんの才能こそ私を救っているのかもしれない。それにみーさんから作られたもので私自身の足りないもの、身の回りのものが備えられていく。そうやって必要最低限のものを活かしながら、何よりも豊かになっているのは私自身なのかもしれない。私は何か実質的なものを生み出すことをせず、ただ文章を書き、絵を描き、曲を作り歌っている。それが私にっての医術なのかもしれなかった。私は精神医療を志しているのかもしれない。自尊心とは、自信とは、生きるとは。そういう問いが私の中に常に生まれ続けていて、ことあるごとに自信を失い、落ち込み続けていたからこそ、どうすればそれでも歩み続けることが出来るのかと模索していたのだ。結局はどんな状態であれ共存し続ける、つまり分裂したまま生き続けるしかないのだが、根本的な生きる力のようなものが大きく欠如していた。それは知識でなく内面の状態のことである。私は自らが自らの空間を生み出すことで欠乏感を回避する術を身につけて来たのかもしれない。現実という世界の中で私はまったく歯の立たない、馴染むことのできない孤独を、一人になり創造を続けることで居場所、巣、すなわち家を作り上げた。それは架空ではなく私には実在する世界である。これを架空だ、妄想だと片付けてはいけない。この巣こそが欠乏しているのだ。どんなに政策を訴えようが、根本的な個人の家、巣がないのであれば何も解決はしない。解決とはその自尊心の低さ故に、鬱、躁鬱、自殺といった結末を生み出さないための治療方法なのかもしれない。

 

調子

 9月前半くらいに大きく調子を落としてそれから人との関わりやふとした時に気分が落ちてしまったりすることはあったものの、大きく落ちずにここまで来ている。1ヶ月以上は保てている。作り続けるという習慣がなんとか身について来ているのかもしれない。それが続けられていることが自尊心を高めているような気もしている。医者に行くと躁鬱として見られるが果たしてそうなのだろうかと疑問に感じてしまうことがある。もう落ち込むこともないし、変に散財してしまうこともないだろうと考えるのだが、先のことはわからないのでなんとも言えない。とにかく今はあっちこっちと思考は行ったり来たりしながらも、急激に落ち込むことはなくなってきたことが救いかもしれない。これ自体が自分自身の仕事なのだと思えているのかもしれない。そういう波自体も創造の過程で必要なものなのかもしれない。とにかく死にたいと考えることがこの1ヶ月で見れば減っているし、その思考にはまらなくなって来たのは大きな収穫のように思える。ただ自分で自分を管理することなのかもしれない。誰かの管理ではなく自分自身を徹底して演じ続けるのだ。溝井孝司という舞台を自ら描き続けることしかできないのだ。そうして振舞って行くのだとも思う。

 

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自信がないとか死にたいとかそいう人に寄り添うための医療を創造している。

それが芸術であるのかもしれないと思っている。

作り続けることなのだと思っている。

 

作ったものを売るとかどうとか以前に、生きるために重要なことをしている気がするのだ。

 

根本的に人を癒したいと考えている。

源泉であるのだ。

20171018

太陽

 久々に晴れ。洗濯物が大量に踊る。少し風はあるが心地よい天気。暑かったり寒かったりするので服装に悩む日が続く。軽く羽織って体温調節が出来るように。太陽が反射する、アスファルト、バス、ビルが眩しい。ありがたいと感じながらも少し憂鬱な気持ちにもなる。刺激が強すぎるのかもしれない。太陽は強い。眩しすぎるのだが、それが光であり、それは誰にも備わっているのだからその輝きから目を背けてはいけないのかもしれない。言葉を手繰り寄せようと考えた時に体は震える。揺れる。貧乏ゆすりという名前がいけない。その揺れこそが体から生まれる創造である。揺れこそが衝動、表出、内面への入り口であるのだ。私たちにとって必要なのはビルでできる日陰ではなく木陰であった。すなわち土である。埋められた土の救出、救急隊の出動、禁止事項を増やすことではなかった。問題点を持つのではなく、問いを持つのだ。それは私たちの中にあり続ける。常に問いを、問いを、問いを。問題意識ではない。それは問いでしかないのだが、絶対的主張である。問題点を大声で語る時それは騒音になりかねなかった。騒音はダンスすることが重要。体から放出させることがまた必要。それは感情的な動きであり、それを音楽にするならば論理的でなくてはいけなかった。感情だけではいけなかった。辿り続けることが重要だった。どこまでも辿り続けるのだ。目の前で買わされる書面のやりとりから目を背けなくてはいけない。またそうやって何か無思考な世界で生きるものが食い物。自己責任論。自己責任を問題視。問題にする前に問い続けることだ。これは内面で起こる。どこまでも内へ、内へ、内へ。呼び覚ませ記憶。創造。抜けた。飛び抜けた。浮いた。飛んだ。フワフワと綿毛。空高く、もう見えない。目を凝らす。また潜り込む。綿毛の中へと侵入。繊維、空洞、断片、粒、粒子の欠片集める。収集癖は直すべきものではない。育てるべきものだ。耳から流れてくるのはピアノの音だった。交錯していたのはエレクトーンの音だったのだ。まったく表情は晴れなかった。この語らいについて議論のあるものはいるか。私は妨げることに必死だったのだが、そのことは内密に行われていた。私の感受性について問うているのか。そこにはなにも生まれない、鼓動のない声、罵声、罵声、罵声。これは罵声だった。その微笑に嫌悪。沈黙。声のある沈黙。かき消すための演奏。どこまでも響く。鳴り響き続けるのだ。晴れない顔。一方的なアポ取り。それは営業ではなかった。また始まった。どこにでも充満。不意な笑顔。許し難き行為。胸は締め付けられた。また起こり始めた。かき消せ、かき消せ、怒号と共に消し去ろうと試みた。それはコミュニケーションであるのだろうか。コミュニケーションですらなかった。それは言葉ですらなかった。笑い声ですらない。頬の筋肉は引きつっていた。動いてはいた。合わせて動いた。喉はなっていた。話が入ってこないのはどうしてかと考えなくてはいけない。1234連打、連打。文字の連なりである。それこそ数字の奇跡。瞬く間に起こる衝動。滝、激流に飲まれ、相槌。空と川の相槌。出会い。交流であった。緊迫感はなかった。緊張感も生み出すことはない。消え去ろうとしていた。天空へと伸びて、伸びて散り散りに。意識。朦朧とする意識。否定、反論、反撃、無知に足しての静かな抵抗。気付かぬ本体。本体はいつの日も流れて行く。底に目を向けなくては何も変わらなかったのだ。根本に目を向けなくてはいけない。なぜ人は殺し合うのか、なぜ自らを殺すのか。これは代理店同士の争いであった。代理店同士が争い奪われる自由。それこそが最大の損失。それこそが危機、危険な状態であった。見聞きせよ。しっかりと見聞きせよ。体を揺らせ。踊れ。目覚めよ。表層に乗っかった問題点をどれだけ解決したところで何も解決しないのであるが、たどり着くことはある。結局は表層の問題に目を向けろとそれが現実であるのだ。しかし、それよりも見聞きをするべきである。静かに佇むことだった。手は震えていた。恐怖ではなかった。向かうべき場所に向かいなさい。逃げながら向かいなさい。後ろ向きでも構わないです。ただ向かうことでした。ただ辿り着くことでした。人間を辿りなさい。言葉に着目しなさい。そこにヒントがあります。そこに人の漂いがあるでしょう。そしてまた漂いから人物の観察、出会い、考察しなさい。そうやってどこまでもどこまでも私たちはつながり続けているのです。深い場所で、出会う、蜘蛛の意図。か弱く心強いその糸こそ辿り続けるべきだった。共に歩みなさい。方向は委ねればいい。ただそれは一方向であり、多方向、多面体。複合、ジャズ。即興。インプロヴィゼーション。これは即興ではなかった。ただ訓練といってよかった。日々の積み重ね。ただ積み重ねること。その訓練。たまるたまる。それは宝か。金か、黄金か。それでもよかったのだ。換金することは可能。そこに気がつかなくてはいけない。どこまでも深くたどり着くことだった。それこそが換金である。それが換金のルーツである。経済なのである。それは思考、思考、言動による行動促進。創造への促進。やめることなき創造、行動。飽くなき探究心。燃える雨傘。頼る雨粒。どこまでも依存、依存、依存。依存こそ自立。依存なき自立などあり得ないと言う。どちらか一方では成り立たない。まったく今行っていることが数秒後には正しいのかと判断ができなくなってしまうのだが、これは反省ではない。反省でも、内省でもない。ただの表出であり、表れであったのだがそのことを恐れていてはもう進めないことを知っている。止まることは許されなかった。私は許可した。何もかもを許可した。許さないことも許可した。許可を許可したのだから、なにもかもが許可の連続だった。そしてそれは署名運動として地域を飲み込み始め、国、そして国境を越える。それが運動の根源だった。根源は私の中に、私たちの中にある。これは声だった。言動だった。太陽の反射による声だった。アスファルトからの伝言、その下で眠る、迫害を受けた虫の声。それでもなお許されると思ってはいけない。いつまでも黙ってはいないのだ。許されると勘違いしているのは人間のみである。いつまでも平気だと息巻いているのは人間だけである。それこそが死者を生む要因であった。

 

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久しぶりに晴れ。

行き先は見つけるのではなく、作ればよかった。

20171017

コミュニティ

 あまり難しいことを言っても仕方ありませんでした。ふとそういう言葉が流れ込んできては出ていくのです。ただ単純に、あの頃。あの頃というのは10歳から12歳くらいの頃にあった記憶なのかもしれませんが、私は確かに様々なコミュニティを行き来していたのかもしれませんでした。そこで起こる歪みのようなもの。それが関係性を示していたのであり私はそこに着目。これは捉え直すという行為なのかもしれない。忘れていたはずの人物、場所、時間、そういうったものがもろとも拡張。全て流れ始める。それは全てが同時平行であるのだが、関連性のないはずの男女がそこで出会う可能性もあり。どちらも捨て難い事実であったし、そっと観察。傍観に近かった。決して参加することはなかった。それでも体は反応していた。重苦しい時間が流れると言った風に時間が重たいと感じる時、それは同時並行で察し続けてきた私自身への音量として捉える。何もかもをかき消すような音量。そしてこちらの世界へ入り込む。雑踏のなかでその一点に耳を傾けるのもまた悪くはなかった。まったくふわふわと浮かび上がる声のダンス。これはダンスとして聞いていて良いものなのだろうか。この場所は混乱していた。混乱を生みだしながら入れ替わり、立ち替わり、出入り自由。席の空きをお先にご確認ください。

 

圧力

 オダは泣いてた。私はその姿を鮮明に覚えていた。私はとある選抜にチームに選出された。オダは選考漏れだったのだ。そのことでオダが私に対する態度を変えることはなかったし、いたっていつも通りの付き合いは続いた。しかし問題はそこに関わりがあった人物間ではく外野からの抑圧であった。それは家族ぐるみで行われていた。これは私の妄想であるかもしれない。私が感じていた圧力について話をしている。私は小学生の頃から人間関係が及ぼす圧力についての研究。立ち居位置についての考えを書類にまとめていた。それは同一線状にいたはずの人物が何かしらのきっかけを元に歪みの元になるという事実であった。それは目であったし、空気でもあった。制圧的な空気のことであった。批判的であり、嫉妬的でもあった。私はそういう渦中になぜか居合わせることになる。それは外圧的な力。押しつぶされるかどうかは自分次第だった。私たちはあのころ確かに"選ばれる"という世界で生きていた。選ばれなければ価値のない競争的な社会で生きていた。それは望んでそうなったというよりは、いつのまにか選ばれていたのだ。選ばれた人間が選ばれなかった人間に注がれる視線とは如何なものか。それは恐ろしくもあり、ただの視線でなんら関係のないものだったし、私はただ自分の欲望に向かっていったのだ。ただその衝動に向かって突き詰めていったのだが、そうして挫折した。しかしそれを挫折と読み取ったのは果たして誰だったのだろうか。私を締め付けていたのは外圧的ではなく、その体験であった。体験からくる知識だった。その抑圧であったのだが、それは体験したものしかわからないのかもしれない。原因不明の圧。それはある日突然やってくるのだ。予想できるものでは無いし、様子が変わるのだ。何もかもの関係性が変化する。そのことに敏感であったのは私自身であった。私はその空気と言える、陰湿な重苦しい状態を幾度も体験していた。オダこそが強かったのだ。オダは選出されなかったことで自らの道を歩み始めることになるのだが、私は一体なんだろうか。私は決められた枠の中にしがみつき、弱い状態、勝ち目のない世界への挑戦、才能との葛藤。ただそういう場に居合わせていたというだけであった。そういう場が私の前に用意され、それは困難だったか。困難と言えるものだっただろうか。私は乗り越えたのだろうか。しがみついていただけではないだろうか。私はただ選出、選抜による、優越感に浸り、入り浸り続けていた。しかし私は選出されたその社会の中でまた序列が生じること、また関係性の構築、観察、考察が必要であることを知る。私はのめり込まない。ただ観察を続ける。

 

歪み

 私は自らの道を進み続けた。周りのことは置いておいてだった。ただ進むべく道を歩み続けていたに過ぎなかった。それは自然なことであったし、有頂天になっていたわけでも、天狗だったわけでもない。ただその移りゆく環境の中でついていくことが必死であったし、それは私にとって大変困難なものであった。そうやって関係性が堕落する。離れていく人物との駆け引き。その歪みのなかで立ち往生。泳ごうともしない。ただ沈むのみだったのだ。その状況下で私は何を歌い、何を描くことができたのだろうか。今となっては遅い。そんなことを言っても仕方のないことかもしれなかった。ただ新たに気づき始めているのは確かなことだった。何かが違かったのだ。何か違う世界の中で生きてきたし、これは生まれ持った使命感のようなものだった。そういう感覚が私の中にあり、そうやって選ばれているのだと自覚。自覚しているのは隣でコーヒーを飲んでいるおじさいさんだった。彼は黒いハットを被り器用に電子機器を使いこなしていた。私は伝えなくてはならない宿命にいたのだ。宿命からは逃れることが出来なかった。伝え続けなくてはいけなかったのだ。「お前は何を感じてきた、お前の生きてきた世界で一体何を感じてきた。お前は成し遂げなければならい。お前自身が突き詰めなくてはいけない。奥の奥へ。そこへいけ。たどり着くことだ。その宿命の中にいる。それは定めではない。ブランコの揺れと同じだった。空を飛んでいるみたい。そんなことよりも立ちくらみ。酔っていたのがお前だった。傍観せよ、傍観せよ」。こちらから歩み寄ることなど出来なかった。もう遅かったのだ。私はいくところまで行くしかなかった。だからいま出会えたことに感謝。今出会っていることこそ幸福。それこそ現実的であり結果だったのだ。どこまでもいけばいいのだ。私たちはどこまでもいけばいい。少し耳を傾ければ分かることなのだ。これは私たちによる合唱だった。そこで指揮するのはハットを被ったおじいさんだったのだ。これは歴史の話だった。その指揮のもと私たちは歌い踊っていたのだ。まるでダンス、まるでダンス。コンタクトインプロだった。体と体が水のように流れる、ただ漂っていたのだ。深みにいた。深みの中にいた。決して否定することではない。進むしかないのだ。共に歩むというのがスタンスなのだ。ないがしろにするな。無視するな。全ての声がお前の声だと思えばいい。お前が生み出した、お前が作り出した声の集約であることを忘れてはならない。

 

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雨が止んだ。