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溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

人目に触れる興奮から言葉が生まれること。

徘徊した先にある歪んだ世界

 もう何度この道を歩いただろうか。ちょっとご飯でも食べに出かけようかと思ったのだが、すっかり分からなくなってしまった。私は決断力が鈍っていた。家を出てから2時間経った。私は鎌倉の街を訳も分からず彷徨っていた。徘徊していた。同じお店を行ったり来たりしている内に、違う通りで見かけた人を何度も見かけた。決して一人では歩いていない。話をしながら歩いている。私は焦っていた。決めることが出来なかった。どこに行っても落ち着ける気がしなかったのだ。何人もの人とすれ違った。出会っていた。それは出会っているということだった。言葉は交わさなくても出会い続けていた。他人と繋がりを求めていた。すれ違うだけで良いのだ。すれ違う時に何かを感じ取れればそれで良い。人を見ていた。見て嗅いでいた。漂うものを感じ取っていた。見出そうとした。すれ違う人から漂うものを嗅ぎとろうとした。何食わぬ顔で歩いている人をその世界を感じていた。私はぐにゃぐにゃと歪んでいた。世界は歪んでいるのだ。音が交錯し、匂いが充満していた。一つではない。複数だ。それは漂っていた。魂のようだった。まるでお祭りのようだ。魂は踊っていた。気づこうとしない。皆、歩いてる。歪みを感じ取ろうとしない。そこだけが世界だと思い込んでいる。行き来出来ることを知らない。歩けることを知らない。道はこちらにもあるのだ。それは道ではないことを知らない。そこはもともと道などではなかった。人間が作った道など、信じてはいけない。そこに道などなかったのだ。歩かされている。敷かれたレールをただ歩いている。そのことに気がつかなくてはいけない。その道は偽物だ。徘徊せよ。道は音にある。道は匂いにある。それこそが道だ。抜け道なのだ。私はフィールドワークをしていた。街を徘徊していたのだ。それは、フィールドワークだった。

 

友人の態度と振る舞い

 友人からメールが届いた。添付されていた画像には絵と詩が添えられていた。僕はその振る舞いに興奮した。これこそが対話だと思ったのだ。独りから生み出された創作物に存在する、態度と振る舞いに僕は惹かれる。彼女は自分で仕事をしている。絵描きでも詩人でもないと思っているかもしれないが、生まれたそのものは絵であり詩だった。そしてそこから漂っている態度と振る舞いがあった。深さが広がりに変わる瞬間がある。見せたいと思うことだ。誰かに見てもらいたいと思うことだ。そこから始まる。開き始める。オープンであることは見られたいという欲求である。見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、触れることも、味わうこともできる。自由な素材であるということだ。それらは人を自由な素材にする。空洞にする。遠くまで声が届く。それは空洞でなくてはいけない。空洞こそ対話を生む。独りで生み出すことは空洞を作り出す。そこには態度と振る舞いが漂う。そこを嗅ぎ分ける。そこに態度はあるか。振る舞いがあるか。独りであったか。

 

湧いてきたこと

 僕は言葉を生み出す瞬間に興奮を覚える。それは新しい言葉を作ることではなく、自分の中に体験を伴った言葉が生まれることだ。体感する言葉が増えていくことだ。それはすでに誰かが知っている言葉であるが、誰かが知っている言葉のままでは自分の言葉ではない。自分の言葉は体験からしか生まれないのだ。その言葉が生まれる時、喜びに包まれるのだ。書くことで言葉を確かめようとしている。ここで書かれることは不確かな言葉だ。経験している言葉やそうでないものも混在している。様々なものを混ぜ合わせて、空間を立ち上げようとしている。そして、現実という世界からの抜け道があることを書き記したいと思っている。これは現実逃避ではない物。妄想ではないものだ。それは感じ取れるものだ。嗅覚に優れた人がいる。漂っている匂いを嗅ぎ分けるということだ。例えば、良さそうなお店おを見つけたり、人出会うことが上手い人は嗅ぎ分ける力があるということだ。それは実際に匂いを嗅ぎ取っているわけではなく、漂いを嗅ぎ別けている。話を聴ける人がいる。聴けるというのは真実に耳を傾けるということだ。表面的に出る口からの音に騙されないということだ。体の中にある微細な音を聴き取ることだ。そういうことを聴き取れる人がいる。それは音にはなっていない。しかし、その音が聴こえてしまうのだ。盲目の友人がまるで見えているように僕のことを話す。「今日元気なさそうだね。大丈夫?」と言う。それは見えているのだ。それこそが見えていると言うことだ。そして、自分自身を見つめる時にはまた別の見方が必要になる。他人を見ることと、自分を見ることはまた違う見方が必要になる。静けさを生み出さなくてはいけない。創造からしか自らは見つめることができない。独りになり、自らの空間を作ろうと試みることでしか、自分を深め広げることは出来ない。自らやらなくてはいけない。誰も手をつけることができない。触れることが出来ないからだ。自らを見て、聴き、嗅ぎ、触れ、味わう。それは日常が生きる。感受性が豊かなほど、生きてくる。これを言葉にしたい。そのために書いてる。

 

 

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誰かに見られていると言うことから生まれてくる言葉がある。

だからここで書いているのだと思う。

 

まとめて読みやすいようにと考えるときもあれば、できるだけ鮮度の高い物を刻み付けたいと思うこともある。

 

ここは日記であり、小説のようなものだからなんでもいいことにしている。

ただ、誰かの目に触れると言うことが重要。

その興奮からなにか生まれることがあるということ。