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溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

届く人には届いていることと感想を伝えてくれること。

湖には静寂が存在してたこと

 「湖の先には静けさがあることを知っているかい?俺は知っている。それは確かに存在していたんだ。波一つ立たない。揺れることもない。そこには静寂がある。静寂が存在していることを知っているかい?きっとそんなものあるわけないって言うんだろう。しかし、静寂はいるんだ。それは確かなことであり、不確かだ。風が存在しているように、君の家の窓から風が通り抜けていくように、湖にも静寂が存在する。それは直線じゃない。ふにゃふにゃさ。国境とは違う。正確さなんてそこには存在しない。いつまでも不確かなものさ。日によって変わるし、1分、1秒で変わることだってある。俺はそれを境界線と呼んでいる。それ以外の言葉を持ち合わせていない。それしか知らない。静けさとの境目だ。人間っていうのはすぐに境を作りたがる。それは差別さ。すぐに差別する。隣の人に対しても差別する。しまいには国境と来たもんだから俺は驚いちまったよ。人とか虫とか草とか花とか、なんでも差別する。俺は傷ついている。元々は蝉だった。今はこの湖にはいないだろうが。蝉だったというよりも蝉の抜け殻だったんだ。俺は抜け殻になった。元々は蝉が入っていた。俺は蝉だったけど、抜け殻だった。薄っぺらい皮膚みたいなもんだ。そうだ、俺は蝉の中にいるハムだった。蝉の体にハムがあることを知っているだろう?俺とハムはなんら変わり無い。人間はそのことをすっかり忘れちまっている。そうして差別するのさ。私とお前は違うってね。このハムと私は違うと訳も分からないことを言い出すもんだから、話すことさえしなくなった。言っても変人扱いされて終わりさ。だから俺は静寂になった。静寂から伝えることにした。そう決めたんだ。だから言葉を話すことはない。これは言葉じゃないからね」

 僕は北海道の釧路市にある阿寒湖の遊覧船に乗ってマリモを見に行った。そこで現れたのは俺と名乗る静寂だった。静寂は自分のことを俺と呼んでいる。名前を持たないからだ。俺はずっと語り続けていた。落語みたいに上手に喋る。僕は感心した。俺は静寂だが語り続けている。言葉を持たないからだ。会話とは違う。ただ語り続けている。しかし、一方的では無い。対話として成り立っている。言葉を交わすことはない。ただ俺が語りかけている。

 「静寂に耳を傾けることさ。声の中にも静寂は存在している。音の中にも静寂はある。静寂とチューニングを合わせてみるんだ。そうすると波一つ立たなくなる。波音だってしない。ただ声に静寂が現れる。静寂なき声に存在しているのは恐れだ。恐怖が笑顔になる。人間ってのはおかしなもんだ。恐怖を恐怖だと感じている。見ようとも聞こうともしない。抱き合うことだって無い。なのに笑っている。恐怖を失った笑いと、恐怖を受け入れた笑いは違う。恐怖を失った先に笑顔はない。現れるのは摩擦音だ。こすれるような音がする。ビリビリと重たい。それは体を覆い尽くすのさ。それは本人じゃない。俺たちだ。聞き手が受け取るからね。」

 俺は少し俯いてそのまま黙り込んだ。そして席を立ちフラフラ歩き出し、外へ出て行った。俺は風になった。そしてまた静寂になった。

 

「今は元気」と答えること

 「久しぶり、元気?」と聞かれると僕は「今は元気」と答える。この先のことはよく分からないからである。現に僕はいま元気である。5時半に起きてこうやって書き始めているから。こういう時は朝起きるのも苦じゃないし、どんどん行動的になる。新しいことも始める。最近は動画撮影や録音をしている。動いている自分を見たり、自分の声を聞くことが面白い。声は今の状態がよく出ると思う。それで、ギターの弾き語りとか、朗読でもして動画にしようかと思っている。僕は語りたいのだ。声を出したい。口から音を出したい。喉を震わせたい。音楽をしようと思った。それにギターもうまくなろうと思った。人目に振れる場所で演奏した方が成長すると思ったからだ。そんな風に外に外に意識が向いていて、自分を表に出せる今は元気だと思っている。でも、いつかまた死にたいと思い始めるかもしれない。本当にそうなるのかどうか分からないのだ。僕はそんな自分を恥ずかしいと思っている。波ばかりあって、安定して継続することが出来ないのだから。このまま主体的に行動を続けることがいつまでも出来ればいいのに。いい大人が死にたいとか、自信がないとかで悩みはじめるのだから。そんなことをいつまでもやっている。この根っこは幼稚園くらいの頃から存在していたように思う。僕は幼稚園に行きたくなかった。泣いていた。しかし、周りを見て我慢した。適応しなくてはいけないと思った。あまり自分を外に出さなくなった。押し殺した。幼稚園児がだ。その頃からあるのだと思う。「子供は幸せだ。楽しいもんだ」なんていうけど、それは大間違いだよ。立派に感じている。言葉にはならないけれど、大人と同じように多くのことを感じ取っているんだから。しかし、今はもうそんな希死念慮は現れないんじゃないかと期待している。なんであんな風に落ち込んだり、自信がないと思い始めるのか自分でもよく分からないからだ。でも、3日前くらいに僕は鎌倉を徘徊していた。ご飯を食べようと思って外に出て、何も決めることが出来ず2時間ほど徘徊して家に帰った。そんなことを数日前にはしていたことも忘れかけていた。だから「今は元気」か「今は元気じゃない」としか言えないと思った。過去も未来も分からない。だけど素直に自分のことを言えたらいいなと思う。聞いてもらえるだけでも嬉しいのだから。だから、今は元気です。

 

 

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お友達がメールをくれた。

「みぞいさんのアート、自由で素敵です( ´艸`) みぞいさんを思い出すときは、いつも気づかないなにかに捕らわれていると気づかさせていただきます(*´∀`)」

 

僕のやっていることが一方通行になっていなくて嬉しかった。

届く人には届いていて、ちゃんと感想をくれる。

そのことが嬉しいのである。

 

ありがとうねー。