溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

曲線にある美しさのこと。

百水との出会いについて

 「私の名は百水だ。」彼は私にそう名乗った。「名は水に由来する。私が水であることを示す。すなわちそれは皮膚であるということだ。私たちは皮膚なのだ。触れ、感じている。どうだろうか。我々は服を着ている。人ではない。建築がだ。直線など自然界には存在しない。私は曲線を求める。曲線こそが自然だ。建築に水と緑を。私は建築家でも芸術家でもない。ただ、名前に百水と込めた。名前は人生を決定づける。運命であるのだよ。人は肌を忘れてしまった。皮膚を忘れてしまったのだ。自らの皮膚を。建築が皮膚であることを。私はパフォーマンスを繰り返した。時にクレーン車でビルに植木を投げつける。裸で街を歩くことだってする。それは啓発だ。ただ、突き動かされたということだ。自然と体が動いた。あなたの皮膚は覚えているだろうか。あなたの肌の記憶を。音楽を。水を。」

 フンデルトヴァッサーの絵画と建築を見て、僕はエロスを感じた。いやらしいとか卑猥とかではない。そこにある美しさだ。本来ある美しさがそこにはあると感じた。少年の姿があった。それは定規で弾くような直線ではないということです。体そのものということです。自然界そのものということです。人は自然界そのものだと思い出させてくれるのです。その曲線が美しいことを思い出させてくれるのです。それなのに、直線を求めていることに疑問を投げかけてくれているのです。いつからそのことを忘れてしまったのだろう。不自然な形態の中で暮らす私たちに警告をしているのです。それは、馬の脚が美しいと思うことと似ていた。惹きつけられることと似ていた。無機質な直線から、私は冷酷さを受けた。檻に閉じ込められた。それは檻だ。牢獄となんら変わり無い。私たちはもうすでに監視されてしまった。全ての行いと言動を監視されているのだ。監視という名の建築が進む。人が人を監視しているのだ。ストーカーを犯罪と言った。それなのに私たちは監視されている。盗撮され、1分1秒とも自由では無いのだ。もう、逃げ場はないのだ。

 

注意喚起と漂いについて

 支配から抜け出すこと。それはいつのまにか起こっているかもしれない。それは表情だった。体に現れる。支配は体から感じ取ることが出来る。恐れは体を硬直させる。感情は奥底で蠢く。しかし、現れることはない。現すことが出来ないのだ。その先が見えなくなってしまうからだ。叫ぶことは出来ない。感情のままに叫ぶことが出来ないのだ。ここにたどり着いたということはもうその支配からは抜け出しているということだ。誰も支配していないことを知っているということだ。支配しているのは誰でもない私自身ということを肌で感じていたのだ。肌そのものであるということだ。皮膚で話すということだ。皮膚で呼吸するということだ。皮膚から情報を取り入れるということだ。皮膚から音楽を聴くということだ。皮膚から言葉を出すということだ。皮膚はその通り道だ。皮膚は通り道なのだ。水を風を通す。皮膚を通り抜ける。私は皮膚だった。皮膚の一部でしかなかった。全てではなかったのだ。皮膚には抜け道があった。表情はそのことを物語る。表情を見るのだ。表情に捉われるな。音楽を聞け。静寂に耳を傾けるのだ。そこに抜け道はある。監視など存在していない。全く違う空間が立ち上がる。それが出来る。言語を失ってはいけない。言語を失ってはいけない。放棄するな。言語を持て。取り繕うな。裸でいろ。着飾るな。ノーパンであれ。これは勧告だ。危険な状態であることを忘れるな。危機が迫っていることを忘れるな。言語が失われ始めていることを忘れるな。その文面には何も語られていないことに気づけ。そのことに気がつくのだ。その文面から大切なことは漂っているか?漂いはあるか?漂わない文面になぜ人は、集まるのだろうか?空虚感が空虚感を集めてどうするのか。漂わせろ。発酵させろ。私は漂いを嗅ぎ分ける。私は文面を読んでいない。ただ漂いを嗅ぎ分けている。あなたの文面に漂いはあるか。

 

テーブルと椅子が書斎を作り出すこと。

 テーブルと椅子がまるで書斎のような気持ちにさせる。鳥の声や隣の家のラジオから漏れてくる声。飛行機の音。足音。少し蒸し暑い部屋の中。静かな空間。洋服が僕をしきり、空間を分ける。風は時折やってくる。僕は書くことで言語を作ろうとしている。それが失われ始めているように感じているからだ。そうやって、場を作っている。それは声の集まる場所だ。声明が集まる場所。生命の声が集まる場所。空間を作っている。風のように来てはいなくなる。それでいいんだと思っている。停滞は出来ない。淀みを生むから。通りがかった人の声明が集まるのだ。僕は子供の代表である。ここにあるのは子供達の声だ。大きい人、小さい人関わらずにここには子供達の声が集まる。そのための場だ。仮想空間を作っている。そのために発信している。実験している。失われた言語は思い出すことが出来る。そう確信している。失われた空間は何度だって作ることが出来る。崩れたところでまた立て直せる。崩れたところで被害はない。それは建築物とは違うからだ。僕は伝えたい、言語と空間について。だから書いている。

 

 

f:id:mizokoji:20170521095137j:plain

馬の脚とお尻が美しいと思った。

馬に興味関心を持った。

そこには曲線があった。

 

フンデルトヴァッサー先生が良いです。

続けましょう。

辞めずに。