溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

創造行為は排泄行為。

排泄と死を見つめること

 「独りでありなさい。アーティストは群れをなしません。軍隊の弱点は人々が群れをなしていることなんです。その点アーティストは孤独です。しかし、独りであるから強いのです。世界各国にアーティストは点在しています。オーストリア、アメリカ、日本。私たちは出会うことはないかもしれません。それでも、同じ感覚を持っています。会うことはなくても通じ合っているのです。人々はトイレと死をどこかいけないもののように見ています。決してそんなことありません。食べることと同じくらいトイレも大切なことです。我々は排泄物から命を頂いています。ほら、こんな風に土と混ぜてみるとこれは肥料になる。屋上の木々が大きく育っていくのです。私は自らが国旗を持つべきだと思っています。自らの国旗を持つのです。今日はありがとう。今日見てもらったり、お話ししたのは私の体験したほんの一部です。ふかいところでお話しできることを楽しみにしています。」

 そういって、百水は森の中へ去って行った。百水は森の奥に住まいを持っていた。豚小屋や馬小屋を活かし、生活スペースとアトリエとを作った。「ヨーロッパではそうはいかない」と百水は言った。「ここではそんなことを気にせずに出来るんだよ」と。百水は静かな口調で終始、話をした。彼のパフォーマンスは過激と言われる。百水の中にある静かな炎を見た。人はなぜうんちと死を遠ざけるのだろうか。僕たちは死んだものを食べている。うんちと死は排泄物だ。いずれ、大地に還る。自然に還っていくのだ。それを食べている。体の中に取り入れている。それが事実だ。排泄物のことを考えなくてはいけない。排泄物と対話をしなくてはいけない。出てしまった物、体から生という枠からはみ出た者たちの声を聞かなくてはいけない。いつでも語りかけている。私たちにいつの日も、いつの日も語りかけているのだ。目を背けてはいけない。私たちは排泄物を元に形成される。私たちの体は全て排泄という行いから現れる。笑われる対象でも、嫌われる対象でもない。うんちをして笑う奴がいたら、「お前はどこから出てきたか知っているか?お前も"排泄物"だ。大地は何で出来ているか知っているか?排泄物からなっていると」伝えることだ。宇宙の営みに排泄という行為はなくてはならないものだ。そうでなくては地球も、人類も、皆誕生していない。耳を傾けるのだ。死者の声に、大地の声に。それが文字を持つ者の役割である。

 

あるのは今の感覚ということ

 久々に織り始める。織ると言っても経糸作るところから始まる。僕は織ることから遠ざかっていたが、やはりこれも体に必要なことだ。ぼくは練習を間違った風に捉えていたのかもしれない。「昨日の良かった感覚を今日も続けていくこと。しかし、その感覚を真似したところで、今の自分にはしっくりこなかったのだ。だから悩んだ。どうして、昨日の感覚でやっているのにうまくいかないのだろうか。同じように動いているはずなのに、ぎこちなく感じるのだろうか」と。あるのは今の感覚だけなんだ。昨日からの延長ではない。"全く新しいこの瞬間の感覚に、どう自分でチューニングを合わし体から排泄するか"なのだと思った。反復練習など存在しない。常に新しいことに挑戦している。同じことでも、全く新しい自分と出会う。昨日の自分とはもうすっかり縁を切ることだった。繰り返すことで出会うのだ。そのあたりを勘違いしてはいけない。今の自分を排泄するのだ。昨日ではない。これまでではない。それが空間を立ち上げる、時間を引き延ばす。排泄の時間が1分だろうと1秒だろうと、そこには膨大な情報量がある。どれだけ受け取ることが出来るかだ。そのことをただ繰り返していくのだ。終わりはないのだ。終わりはないから旅ではない。内側は常に"狂気"と"狂喜"が混在する。共にあるのだ。やつらに終わりはない。旅ではない。それは狂気と狂喜だ。

 

鎌倉には夜があること

「この街」

この街には 暗い夜がある

この街には 帰る家がある

この街には 帰る人がいる

明日も明後日も 一緒に歩いてく

 

 曲が出来た。4カポでC、G、Dです。人には音楽がある。それはよく聞く物ではないのかもしれない。流行りの音楽とは違うものかもしれない。それで良いのだと思った。それこそが良いのだと思った。どんどん作れば良い。同じ感覚でいることだ。ショービジネスではないのだ。

 鎌倉に住んで夜が暗いことに驚きました。静寂がありました。夜の香りがしました。そこに家がありました。一緒に帰りました。歩いて帰ったのでした。

 

排泄行為と創造行為

 排泄行為と創造行為はまったく似ていると思った。今まさに、排泄行為をしながら思った。ぼくは毎日出る。うんちが毎日出るのだ。だから、毎日作品が生まれる。それと一緒なのだ。毎日出てくるのだ。それを我慢しておくことは出来ない。お腹が痛くなるし、結局我慢できなくてもれてしまう。それなのに、どうして自分のことときたら後回しなのだろうか。今出てこようとしているのに引っ込めてしまうのだろうか。それは恐ろしいことではないか。自然の摂理に反している。まったくおかしなことをしているのだ。うんちを笑うな、死を恐れるな。身近にあれ。隣にいろ。対話せよ。耳を傾けろ。

 

 

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排泄物に耳を傾けよう。

以前、アーティストの友人とうんちについて熱弁した。

「私たちは、みんなうんちだ」と言った。

 

まったくその通りである。