溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

大きな人の子供もみんなの子供であること。

夢自体であること

 見ている夢は自らが作り出している創造物である。決して一方的に流されている物ではなく、自らの思考が生み出す創造物である。そこには自由がある。だからこそ、信じたくないような事実が隠されている。見たくないと思っているものや、欲望がそのままの姿で現れる。それは自らが望んでいることだ。夢になるのだ。夢であることに気がつくのだ。自分自身が。自分自身が夢であること。どちらも現実であり、自らが作りだした虚構であると知ることだ。勝手に脚本すればいい。好き勝手に書き換えたら良い。その行いに大いに興奮し、悲観すればいい。すべては夢で現れる。夢が現実を現すからだ。自由であれる場所が必要なのだ。夢を是亭も否定もせずに、その興奮と悲観をそのまま言いあらわせる場所が必要なのだ。それが書くという行為だ。誰に見せるわけでもなく、書けば良い。見せるために書く必要なんてない。そこには僕だけではない秘密が隠されているからだ。あなたの秘密も僕は書き留める。嘘偽りなく、僕が見たものを、聞いたものを、感じたものを書き留める。それが声だ。風が運ぶ声、排泄物から漂う声。

 

個人事業主という肩書きに身を纏うこと

 フンデルトヴァッサーは「自らの国旗を持ちなさい」と言った。坂口恭平も「現政府に不満や愚痴があるな国を作ればいい」と言った。どちらも同じことのように感じた。「どこどこ党を応援しています!応援よろしくおねがします!」ではなく、お前が作れなのだ。「どこどこ党」とか「どこどこ教」とか「どこどこビジネス」とかそういうのに違和感を覚えるようになったのはいつからだろう。僕は一人の友人の声に乗っかった。「一緒に起業しよう」という声。しかし、それはただ新たな群れを作り出すことであり「なんとか党」を新しく作ることとなんら変わりなかった。僕という存在は群れをなすことでだんだんと陰っていく。群れれば群れるほど力を失っていく。力を発揮するにはやはり個人でなくてはいけない。でなければ輝かない。光を取り戻すことが出来ないのだ。それでも"個人事業主"というのが流行っている。個人事業主でも結局「なんとか派」みたいなのが存在している。僕はそこに違和感を感じている。個人事業主なのに所属しているように見えるのだ。結局、会社勤となんら変わりないように見える人もいる。むしろ会社勤めしている人の方がよっぽど個人で生きている人もいる。肩書きに囚われてはいけないのだ。僕は徹底して個人を見たい。裸のあなたを見続けたいのだ。そこには多くのしがらみや着込みすぎて脱がすことのできない服が存在しているように思う。それでも、望むなら僕は服を脱がすことに加担する。そこにしか興味がない。個人事業主という肩書きが人を裸にさせているようで、結局新たな服を着込んでいる場合があることを忘れてはいけない。僕は個人であり続ける。そこは厳しく自分を見る。徹底的に批判する。個であることが人を光らせるからだ。個を輝かせることだ。それが僕の使命であり、役割である。

 

うちにいる子供は自ら育てること

 特別なことをして着飾る必要はない。編集などせずそのまま。organicであること。本質的であり、根本的であること。そのままであること。そのままの声でいいこと。そのままの声を高めていくことを怠らないこと。排泄した後に装飾しないこと。排泄されたそのものを高めていくこと。それが仕事である。それが営みなである。ありのままではいけない。ありのままを高めていくのだ。それは今にチューニングを合わせること。その精度を上げていくこと。昨日の延長ではないこと。新しい今だということ。常に更新されていくこと。常にチューニングを合わせ続けること。それには量が必要だということ。質ではなく量だということ。地道だということ。ただ、淡々と続けていくこと。その行いを営みをやめないこと。それは死を意味すること。生きたままの死は許されないこと。しかし、死に対して否定をしないこと。生と死はどちらも同じであること。使うエネルギーの総量は変わらないこと。どちらに針を振ったか。ただそれだけのこと。自らの秘密に迫ること。自らが事実を隠蔽した共犯者であることを知ること。その事実を見つけた探偵が隠蔽した張本人だったこと。気づかぬ探偵に声をかけること。「それはあなたがやったんだ」と、そっと肩を叩き、抱きしめ、無言の時間を味わうこと。決して大人にはなれないこと。本当の大人は大人にはなれないこと。鮮麗されていくこと。それが大人になるということ。ピーターパンはただの大人になれない人ではないということ。信じる力を持っていること。それを現実に変える力を持っているということ。誰よりも現実と向き合ったということ。ネバーランドという新たな空間を作り出したこと。それが出来るのは信じる力だということ。想像の力だということ。それがただ妖精であっただけだということ。ツールにすぎないということ。盲信しないこと。事実は私の中にいつまでも子供の僕が生き続けているということ。その子供たちを育てるのは自分自身だということ。それを避けてはいけないこと。決して、新たに生まれた子供たちに当てつけてはいけないこと。自らの子供は自らしか育てることが出来ない。自分でやらなくてはいけないこと。新たな子供達、立派な一人の人間にそのことを押し付けないこと。一人の人として接すること。すなわち、その小さな人たちも自らが自らの子供を育んでいけると信じること。それが人と人との関わりであるということ。

 

 

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子供はみんなで育てればいいとふと思った。

それは自らの子供を見捨てなかった時に言えるのかもしれない。

 

自らの子供を殺さなかった人が言えるのかもしれない。

 

それでも、みんなで育てたらいい。

みんなの子供だ。

 

それは僕の内側にいる子供も。

大きな人の内側にいる子供も、みんなの子供だ。

 

しかし、押し付けないこと。

人と人との関わりだということ。