溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

空間と空間で人付き合い。

空間のこと

 僕はやはり空間に興味がある。それは建物とか建築とはまた違うもの。ひとつの空間をどう彩るかとかそういうことともちょっと違う。僕が言っている空間は夢想空間。空想空間。思考空間。瞬間空間の連続。そんな空間である。現実とは別に持つことの出来る空間である。頭の中というよりは、体の中に存在する空間である。固いというよりは柔らかい。寒天粘土。生きることの出来る空間。確かに存在はしていないようなのだが、不確かに存在している。現実にあるのです。そこの接続を滑らかにすることが僕の仕事。空洞になること。橋渡し、現実と夢想空間の橋渡し。もうひとつあることを知ってもらう。知っている人はその空間こそ一生作り続けるべき作品であると伝えること。それこそがあなたの使命だと伝えること。自信を失う必要も、自分自身を殺して生きる必要もないと知ってもらうこと。愛で憎悪を奥底に追いやる必要もないことを知ってもらうこと。それは愛ではないと伝えること。思考の抜け道のようなもの。それが芸術から生まれてくる。体験を伴う愛が生まれる。引用の愛ではなく、深い場所でつながりあう愛。深い場所で出会う愛。ふわふわと夢の中にあるというよりは、お腹の中にあるような感覚だ。胎児のような感覚。僕は出産を繰り返している。言葉を使って出産を繰り返し繰り返し、永遠に行っている。胎児と胎児で語りあう。お互いが胎児になって対話する。対峙し合い、感じあう。肌で対話する。胎内空間。人は皆、胎内空間を持っている。そこまで辿ることが出来る。時間を自由に行き来することが出来る。その胎内空間こそすべてが愛になる空間のようなもの。持っているし体験している場所。その記憶を呼び覚ます空間。それが、現実とは別の空間として現実に存在していること。それを作り続けていること。

 

0円で楽しませる技術

 みーさんから「お金が入ったら世界中の文化やアートに触れに行こうと思いました」とメールが来た。あまりに明確で素直な言葉に「そうだ、それをお金がはいったらやろう」と僕も思った。だって、そうやって体験したことを僕はひとに伝えることが出来るし、作ることが出来る。それを人に伝えて、楽しんでもらったり、その人の創造意欲を駆り立てることが出来る。「自分も何かやりたい!作りたい!」ってよくわからないけど思ってもらえる。

 とは言え世界中のアートや文化に触れたいが、僕は住む場所に関しては日本でいいと思っている。望むのは風が通るくらいかもしれない。今の所。知らないところに行っても結局カフェとかに籠ってしまう。僕はそういう人間なのだ。そりゃ、もっと活発な明るい女の子みたいなのに憧れもしたけれど(そういう女の子は旅をしている印象がある)、やっぱりカフェなのだ。やっぱり家なのだ。布団の上に限るのだ。そう。だけど、触れていたい。体験をしていたい。肌で感じたい。そんな気持ちを思い出したのだ。それで僕が言いたいのは「お金があってする体験ももちろんしよう!だけど、お金がないといい体験が出来ないみたいな幻想からは抜け出したらいいじゃないか」という提案である。ぼくはお金がなくても家の中で楽しめる生き方とは何かを実践しているのだと思う。みーさんに"いま0円で出来ることは思いついたらなんだってやったらいいよ"と言われる。だから散歩してお花を摘んだりする。空き瓶にお花を添える。家の中が幸せな空気に包まれる。お花を眺めて「ああ、ありがとう。幸せだわ」と独り言を放つ。こういう体験にはお金がかからない。家にはもらったギターがあったからコード見て始める、好きに歌を作り始める。絵だって大量にあったA4のコピー用紙にボールペンで書きはじめたのが始まり。こうやって書くことだってパソコンを持っていたから書くことが出来る。もともとはノートとか紙に父からもらったシャーペンで書くことも好きだった。数日前から、家にあった段ボールや紙に色を塗ってコラージュの作品を作り始めた。いま家にあるもので0円で始められた。こうやって0円で自分を楽しませる方法を体験していくのである。僕はこれこそ「家の幸だ!」と思った。ゴミだと思って捨ててしまう物でも、それが「家の幸」に代わり0円で自分を楽しませる素材はたくさん家の中にある。そうして、お金がないと楽しめないと言う幻想から抜け出すことができた。これこそ、根底にある安心感のだと思った。0円でも楽しめるということを知る生きていけると知る、第一歩なのだ。お金がなくてもいまから始められることなのだ。

 

人付き合い 

「みぞこはこんな風に真剣に関われる人を増やして生きたいのだ。

こうやって対話したいんだ。

これが、みぞこの望みである。」

 

 友人に送ったメールである。最近、人付き合いについて考える。僕はひとりひとりと深く長く付き合うことがあっているように思ったし、そうやって人付き合いってやつをしていきたい。僕は、現実的な家族の他に、深い場所でつながりあう家族のような存在が空間として存在していると思っている。一つ屋根の下で暮らすでもなく、毎日毎日顔を合わすでもなく、一緒にご飯を食べるでもなく。それでも家族と言える。花族。会うことはなくても似た感覚を持った花族。花のように地面に咲いている。隙間をみつけて生き抜く花族。そんな家族。僕は1度でも対話した人は深度の深い家族になる。すれ違いざまに目があったその人も、ちょっと声を掛け合ったその人もまた広がりのある家族であると思う。僕はいま深度の深い家族がもうすでに存在していると思った。お互いの深さを知り合った、共有し合った家族。深さを知り合うのはタイミングがある。突然なのだ。いきなりやってくるから、その時にビビってはいけない。とにかく自分自身が深く入り込み言葉を投げかける。そうやって、自分が深くまでいく。お互いに、共鳴しあって、さらに深くまでたどり着く。まだ見ぬ宝が、声がそこに眠っている。忘れていた記憶。太古の記憶がそこにある。そういうことが出来る人はむき出しだ。自分を守っていない。そう言う人が好きなのだ。だから好きだと真剣に伝える。そこに愛があると思っている。表面的な愛ではないもの。セックスした人数を計算しているうちはまだ童貞なのだ。それはセックスじゃない。数増やせばいいってもんじゃない。性別とか、年齢とか関係ない。もっと深い場所で感覚を使って、耳を澄まし、奥底を見つめ、言葉を奏で、肌で感じ、空気を味わい、言葉を太古の記憶を流し込むための空洞に自分自身がなるのである。そうやって真剣に関わりたいのだ。僕は面倒くさいやつだ。自分のこういう気持ちを伝えたい願望が強い。情熱的なのだ。静かに情熱的なのだ。蠍座なのだ。

 

 

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人付き合いをしたいなと思います。

空間と空間を使って。