溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

舞い込んでくる問いがあること。

歩く

 山と森を7時間半かけて歩いた。雨が降る中歩く森には少し霧が覆っていた。足元が泥濘んでいる場所もあった。リスがいた。鶯が鳴いた。リスが枝を落とした。カラスが舞っていた。カラスが1枚羽を落としていた。拾った。雨はすっかり止んで、木漏れ日が差し込んだ。足元に影が見えたことを喜んだ。雨が止んでも雨粒は落ちてきた。木々が蓄えた水が、風の悪戯によって滴り落ちてくる。その度に纏っていた服には濃いしみが出来た。身体はもちろん疲れていたかもしれない。坂道になると息を切らした。取り囲む自然に目を向ける余裕もなくなっていた。しかし、コンクリート歩くよりはマシだと思った。車がすごいスピードで通り過ぎて行く横を何時間かけて歩くよりは気分は良かった。山から滑り落ちないように、転げ落ちないようにする緊張感はもちろんあった。「ブーン」とハエが耳元を通りすぎて行く。その音に身体はビクッと反応を示す。下を見て歩いていると垂れ下がっている葉っぱに気づかない。突然触れられる葉っぱに内心ドキッとしていた。山を登り、あたりを見晴らしていると靴が濡れていた。生えている草の上を歩いていたからだ。蓄えた水を僕たちが踏みつけたからだった。そのお返しに靴はしっかり濡れていた。森を抜けると農場のようなところに出た。急な坂道を下る。頭を屈めながら進む。つい、頭上にあった桑の実に気を取られてその坂道で足を滑らせた。左手で体を庇った。まだ転び方は若そうで安心した。ついた土を払い落として、農場を抜けると、そこには街が広がっていた。住宅街だ。そして、高速道路。車が音を立てながら通り過ぎて行く。山の上にある神社にお参りをした。そしてまたコンクリートの道を歩いて言った。少し、足早に。森を歩いていた時の感心はどこかへ言ってしまったような気がした。見慣れた光景が広がる。どこかタイムスリップしてきてしまった気さえする。これは同時に存在していることだった。森も山もコンクリートも同時に存在していた。しかし、どうもそこでの時間も肌で感じ取る空間もまったく違うもののように感じる。感じ取り方が違う。全てが存在している。横の空間。縦と斜め。空間。広がりのある時間。狭い時間。そういうものが存在する。挨拶のある空間。挨拶のない空間。街にも存在する。

 

 スカビオサが咲いていた。家の中で咲いていた。ドクダミとハルジオン。どこでも強く生きてゆく。紫陽花の七変化。色は移りゆく。変わりゆく。

 

問い

 どこかに追いやった。追いやったのはいつの日も自分だったのだ。今は強くなったのかもしれません。あの頃とは違い、強くなったのかもしれません。その強さが、あの頃の弱さを傷つけることがあるのかもしれません。弱かった自分を、押し込めてしまうことがあるのかもしれません。行き場をなくしてしまうことがあるのかもしれません。そうしたのは間違いなく今、自分が発している一語一語であり、その言葉に敏感に受けとているのも、また自分自身であり。前向きに生きることも必要であるのかもしれません。しかし、どうしても強く反応を示すのです。胸を締め付けるのです。それをなかったことには出来ないのです。だから、進んでは止まり進んでは止まりを繰り返しているのです。時にはひどく落ち込むこともあります。それはずっとあったことでした。ひどく、内側にこもってしまうのです。それは潜ると言ってもいいかもしれません。潜り込んでいる期間があるのです。それも踏まえてやっていくことが必要なのかもしれません。悪いことではありませんが、どうやら人よりも時間がかかることは確かです。しかし、人よりも早いペースなのかもしれません。時間が早いのです。巡りが早いのです。決して遅れていたり、進んでいないわけではないのです。先にいるのかもしれません。巡りが早いが故に、誰もいないのかもしれません。グラデーションというものがない瞬間があります。0か100なのです。白か黒かなのです。間のグレーや朝から夜にかけてのグラデーションを見つけられないことがあります。メモリは0か100を指していました。グラデーションがいつもないわけではありません。突然、白か黒になるのです。突然なのです。それがいつ起こるかなどは分かりません。舞い込んでくると言った方がいいかもしれません。記憶が蘇るように、私の人生に舞い込んでくるのです。自然なのかもしれません。ひどく考え込みます。その舞い込んできた問いに対して考えないわけにはいかなくなってしまいます。しかし、考え込んでいるわけではないのです。その問いを持っているだけなのです。答えがすぐに見つかる時もあれば、長期間かかる場合もあります。そうやって舞い込んでくる問いと共に生きているのかもしれません。それは新しいもでのではありません。ずっとずっとあったものでした。私が生きてきた中で抱いた問いを、認知をいま変えています。毎日変えて行くのです。問いが生まれるからです。問いを認識し、今の認知に変えて行くことしか出来ないのです。放っておくことはできませんでした。自分のことだからです。思考だからです。

 

 

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問いを無視できないだけかもね。

その都度、認知を変えるしかない。

言葉を産むしかないのです。