溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170629

逗子と運動

 材木座海岸を逗子方面に向けて走っていく。珍しくスポーティな格好をする。野球をしていた時に着ていたアンダーシャツ。袖を通すと軽快な気持ちになる。着るものは人の心を変えるのでしょうか。それを着るまでが大変なのですが。ランニングしようと思ったのがお昼過ぎのことだった。着替えて外に出たのが16時半ごろ。意を決して動き始めるのに相当な時間を要する。その間の葛藤とかそういうことが、文字になっていたりもする。一見、無駄な時間のように感じる。なんでもテキパキ時間をかけずに、スケジュールをこなす。そんな風に出来たらよいなと思ったりもする。しかし、思考が働く。様々なことが駆け巡る。「考えてる暇があったら動きなさい」と人は言うのかもしれないが、僕にとってはその考えている時間こそが重要であるのかもしれない。ただ、寝転がったり、あーでもないこーでもないと考える。時には行き過ぎて「あぁ、なんて自分には価値がないんだ。いっそ消えてしまった方がいい」と思う。そういう過程を経て、それでもひとつひとつを毎日継続していく。やめることなく、永遠の運動として続けていくのだ。思考も運動だ。そして実際に指を動かし、文字を現す。表出させる。

 逗子方面に行ったのは初めてで、鎌倉とは少し様子が違うように見えた。逗子の海沿いはまるでリゾート地のような装いだった。洋風な建物が建ち並んでいた。芝生に覆われた小さな公園がある。そこで2、3人の子供が走り回っている。高校生のカップルと海ですれ違う。仲が良さそう。何よりだと思う。海を散歩している老夫婦を見かける。何よりだと思う。僕は一人でまた走り出す。走ると行っても、ほぼ歩いているペースと変わらない気もする。気持ちは軽快だが、身体はズンと重たいのだ。坂道を思いっきりダッシュする。陸上選手がトレーニングしているような気持ちになるが、実際の動きがどれほど窮屈そうかはあまり見ないようにしたいとすら思う。僕は、イメージしている自分の動きと実際の身体の動きにギャップをずっと抱えていたように思う。イメージでは軽快に、軽やかに動き回っているのだが、体が実際についてこない。小学生くらいまではそんなことなかったのだが、成長期を迎えて体が大きくなるにつれてその差が大きく開いていった。そういう経験から、僕は運動音痴だと思い込み、体を動かすことからどんどん離れていったように思う。

 数年前にコンタクトインプロというのを始めた。即興ダンスみたいなものだ。特に決まった振り付けなどはなく、数人で体を使ったり、空間を使ったり、音に触れたり、空気に触れたり、自分の内面に触れたりしながら踊る。時に流れるような動きが生まれたり、重力のない世界に浸ることもできる。自分というものがまったくなくなる瞬間に出会うこともある。何か結果であったりに捉われず自由に体を動かすというのはすごく楽しく、爽快なものであった。

 

力を抜くこと

 出来ることなら多くの人と分け隔てなくコミュニケーションを取れればいいとずっとずっと願っていた。そう願っていたし、そうしたいと思っていたが、それは私にとってとても困難なことだった。実際に話すとなると、とても難しいと感じる。誰とでも分け隔てなくということがなかなか出来ないのだ。ここでいうコミュニケーションはダイアログのことを言っていて、対話についてだ。どんな人とでも深いところで対話が出来たらいいなと願っていたが、実際私自身が分け隔てなく関わることができないので、それは難しいことだった。なので、私自身の問題として捉え、どうすればこの閉じた心を開けるのかをずっとずっと考えてきたのだが、無理にこじ開けるのも身体に悪いし、変な力が入ってしまう。それよりも私がやるべきことは力を抜くことであったり、流してくことだ。軽やかになることの方が重要であるのだ。どうも力が入りはじめると精神的にも良くないようだ。もちろん適度な力は必要だが、極度に力が入ってくるのは良くないようだ。誰とでも分け隔てなく関わろうとして、極度に力が入るのなら、いっそ無理に人に会う必要もないし、頑張ることもないのだと思っている。

 

書くことの効用

 書くことの効用について。書くことが会話であり、対話である。私はこうやって多くの人と対話を繰り返している。一対一ではなく一対多。こうやって書いていること自体も一対多なのだ。僕は、書くことで多様な自分自身をより知ろうとし、関わろうとしている。これが一つ書くことの効用である。結局、僕は書く。様々なことに興味関心を移していくし、きっとこれからも変わらないのだと思うが、結局書いている。気が向いたらとかではなく、毎日書く行為が必要になってくる。これは自分に出した処方箋のようなもので、書くことが薬なのである。これは芸術療法であるし、自己治癒力を高めている。不安定である自分が生き残るための戦略でもある。なので、楽しいからという以前に、書かざるを得ず書いている。ネガティブでもポジティブでもない。書くべくして書く。その運動が必要なのだと思った。僕はずっとずっと才能というものを探していたし、自分だから出来ることを見つけたいと思っていたのだと思う。まるで宝探しみたいにあっち行って、こっち行って。どっちにもないことを嘆いていた。だったら掘ってみようと掘り出してみるが、そこにキラキラ輝く宝物のような才能はなく、綺麗な丸とは到底言えない異形の物体があるような感覚がある。なんでも器用にこなしたいが、そんなに器用ではなく、それに多くの人と関わりたいと思うが、実際にそんなにうまくこなせないという思いにつながる。その異形の物体にただ書き刻んでいる。壁画なのだ。私自身は壁画である。そこに書き刻んでいる。時に絵を描き、歌う。奏でる。そういうことをしている。結局それは書くための潤滑油であるようにも思う。書くことは永遠の運動なのだ。書くことの効用は絶望なのかもしれません。見つけた絶望を、掘り当てた絶望を、あまりにも異形で異質なその物体に書き刻むことが出来ることなのかもしれません。ずっとずっとやってきたことだ。私が掘り当てた希望は絶望だったのだ。その絶望に書いている。どこまでも続いている。壁に、トンネルに。空いている場所に書き刻む。時に重ねて書くことさえある。場所は問わないのだ。どこにでも書くことができる。書くことの効用。

 

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「あなたは書くことが仕事」とみーさん言われた。

一人理解者がいればいいと思った。

みーさんも自分で書き始めた。

それでいいのだと思った。

そうやって広まればいいとも思った。

勝手に始めてしまえばいい。

 

頼まれたわけでもお願いされたわけでもない。

それでもやってしまう。

やらなくてはいけない。

永遠に続ける。

 

それでいいのだ。