溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170702

ひとり逹

 腹筋、背筋、腕立て。筋トレ三種の神器。腕立てはほぼしてない。少し、体に目がいく。季節の移り変わりとともに興味関心も変わっていく。今は体の状態を見ようとしている。緊張状態が続いている。それは体から続いている。やっていることはあまり変わっていない。体の調子を見ようとしている。動きとして、響きとして。ストレッチをする。体を見る。体から見ている。体が見ている。体が見つめているのだ。体自体が私を見ていて、見ているのは私ではない。体が主体。主体は私ではない。体の部位が主体であり、私は主体ではない。勘違いしてはいけない。体が言葉を発するのであり、私が発しているわけではない。この声は体から発しているし、それが私の意思とは到底思うことは出来ないのである。ただ、運動として響きを持たせることができる。そのことに感動するし、涙腺が緩む。涙腺を響かせるのだ。すると体が起きてくる。私自身が起きてくるのかもしれない。閉じこもっていた私が少し顔を出し始める。涙腺は体である。涙腺を響かせるのである。涙を誘発する。歌うことである。音楽である。涙腺を誘発するのである。響かせるのである。そのことは体が言っていたし、私はただ頷いてたいだけです。ただ、涙腺はそういっていたし、涙腺を器官として認識することだと言った。涙腺を緩ませることだと言った。どうやら私にとって歌うこととは涙腺を緩ませることであり、音楽もそのひとつであるようだ。涙腺を緩ませることがひとつの作用として必要なのである。涙を誘発したいのだ。心を動かそうと思っている。それは体に刺激を与えることであり、体を震わせることだ。それが心の動きといっても良いのかもしれない。しかし、心はまた別の場所にも存在する。それは心とは呼ばないのかもしれない。それは動きとはまったく別の次元に存在しているし、何にも左右されることはない。動じることがないのだ。ただ、見ているし、聞いている。その声に耳を傾けることはまた別の話であると思われるが、しかし密接に関係している。切っても切り離せない関係でありながら、すっかり切り離されて別々の暮らしを余儀なくされている。それを無理に元の関係に修復しようとすることは私の仕事ではないし、むしろお互いはそのままの関係が良いことを知っていて、自らの意思でそうしていることを尊重しなくてはならない。私の意見を言うことは私にとっての自由であるが、それが先方の望むことかと言われると決してそうとも限らないのである。そうなってくると私自身が、ここに存在しているなど到底思えるはずもなく、そう思う必要すらあるのかと自問自答する日々を送っています。その時期も今ではすっかり超えたようで、自問自答というよりはただここにいるし、見ているし、聞いているのです。涙腺は自ら震えるし、私が誘発しようとしなくてもしっかりとその役割を果たしているのです。私は、ただ奏でているし、それが振動となって揺れている。貧乏ゆすりもその一つであり、私の震えこそが体に伝わるのだとそう思っています。しかし、震えているのは体でありました。すなわち私私と申している私は体の部位部位の存在であり、決して一人称ではなく、私たちであるのです。しかし、それが私たちと決め付けることはできず、それらはみな一人一人であることもまた事実であるのです。私は一人であると信じ疑いませんでしたが、結局は私たちの声であり、それは体もそうですし、心ですら多面的に広がっているのです。一人とどうして計算できましょうか。私をどうして一人と計算することができましょうか。私はひとり逹なのです。これはひとり逹が語らった結果でありますし、そのことを私は代行として書き記しているだけであります。みなおしゃべりが好きなのです。そのことを私は良く知っていますし、そうなってくると私はただ書くためにこうしてFとJの位置に指を置き、基本的な型を守りながらも文字を書いているのです。しかし、これを書いているのも私でなく指先であり手のひらであり、手の甲なのです。そして、腕や肩もそこに参戦します。腹筋も背筋も参戦しますし、足もあぐらをかいております。すなわち私たちと言って良い状況がここで繰り広げられており、我々ひとり逹がこうやっていま集まっている状況であるのです。そのことをいかんせんどう伝えていいか私も日々試行錯誤しながらこうして、書き記すことを繰り返すのですが、これは所蔵庫にしまわれているのできっとまた調べることができるはずではありますよ。これらの出来事は本棚に置かれ、順番などはなく、そこに秩序は存在しないのです。それがひとり逹の資料であり、これは私がやるべくしてやっている仕事のようなものです。なんせ代行ですからね。家事代行などと近いものです。みなさん、そうやって代行しながら生きているわけでして、私は私の代行としてここにやってきたのです。ひとりたちの代行であるわけです。

 

 

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僕はひとり逹である。

ひとりひとり逹である。

 

そして代行である。

書記代行である。