溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170711

模写

 クリアファイルを買った。絵を入れておくためだ。最近描いた絵もあれば、1年前に描いていたものもある。置きっ放しになっていたので入れてみようと思った。量があるようでないなと思った。まだまだ描けるなと思った。何を蓄積しているのかは全くもって分からない。ただ、爪痕というか、傷を残すようなそんな感覚なのかもしれません。昔、壁に絵を描いたように。刻み付けるようにそこに描いていたように。そういった感覚と近いのかもしれない。朝起きるとお裁縫の本が置いてあった。最近、家にミシンが届いたのだ。ちょっと読んでみようと思った。最近、歌詞を手書きで写している。そこにコードを書いて、ギターで弾けるようにもしている。その時間がとても気に入っている。何か見逃していたものを書き取っているような感覚だ。見逃していることがある。だから書き写しているのかもしれない。そして、自分の歌になったかのようにとても親近感が湧く。それはとても嬉しいことだった。模写することも時にはいいなと思った。行動することが大事だからだ。体を動かすことが大切だからだ。書くという動作をすることがとても有意義であるように思えた。昔は書くのなんて嫌いだった。黒板に書いてある文字をただ書き写しているだけに思えたが、今となってはその行為がその人を模写している行為であり、好きな先生の授業は喜んで模写をしていたような気がした。真似ることが学ぶことだ。そういう時間も愛おしいと思えた。体に刻んでいるのだ。動きを。体はそのことを覚えている。最近、音楽を聴きながら書いている。少し暑さが和らぐような気がするからだ。聞いているのか聞いていないのかは分からない。聞いている時もあるし、そうでない時もある。ただ、音楽がそこにあることが心地よいのかもしれない。流れていることが、それが良いのかもしれない。決して僕のことを邪魔しようともしないし、介入しようともしない。それでも流れ続けているのが心地よい。その時間が良いと思った。

 

時間

 時間の流れに追われていますか。時間に追われているのでしょうか。流れている時間はとても豊かなように感じます。私の心を穏やかにさせますし、書いている文言も穏やかに感じてもらうことすらあるようです。落ち着いているようにも見えるようです。これが私の持っている時間なであり流れなのかもしれません。これは気づけばそういう時間が流れていたというものかもしれません。穏やかであり、せかさせることなく存在し続ける時間です。これは、一人でいることで流れ始めました。これが私の持っていた速さであり、遅さなのです。せかされることもなく、ただじっと布団の上に腰掛け、こうやって文字を打つ時間はなにか人と流れが違うように感じています。確かに持っている時間は同じなのかもしませんが、流れて行く速度は違うのでしょう。そのことから目を背けてはいけないのだとも思います。ネットやSNSを見た瞬間にこの流れは崩壊しますし、防波堤を超えてこちら側へ流れ込むこともあるのですから。時間は流れています。時間は私自身であるということです。私自身が得ている情報が時間だということです。時は進みます。時間は流れます。私の空間があります。それが生きるということです。そこで生きています。巣を作っています。ツバメが子供達を育てるように。巣を持ちます。私も巣を持っています。そこで育てています。育みます。私を育んでいるのです。それ以外に大きな理由がありましょうか。私はただ、巣の中で成長をしているだけなのです。それ以外に、それ以外に理由などありません。

 

人間らしさ

 人の機嫌が気になります。そういったことが最も気になるのです。あなたがなぜご機嫌ではないのかが気になります。それは私の生きているこの空間に危機が近づいてるような気がするからです。心配しているようで、私自身の安全を守りたいと思っています。気遣っているようで、私の恐怖を隠すために必死に取り繕っています。あなたのためといいながら私自身が、ここで自由に、安心して存在できなくなることを恐れているのです。だからあなたの表情を空気を見ています。気を使っています。だから気が疲れます。気を使い果たすことがあります。そうすると、もうどうすることもできません。それでも、構いません。私が生きていられるならそれで良いのです。結局は私自身の命なのです。私が生き残ることが出来ればそれで良いとすら感じています。男の責任とか、男だからと言ったそういう差別的な見方を私は好みません。誰も守ることは出来ません。誰かを叱ることなどもってのほかです。私は、何か力強く物事を推し進めることが出来ません。そういうことを求められるたびに嫌気がさしていました。これは差別であるとすら思っていました。男であることを私は恨みました。男の強さに私は怯えていたのです。どうすることもできない、暴力的な姿に私は来る日も来る日も怯えていました。しかし、ふと気付いたのです。もうそんな時代ではないはずなのに、どうしていつまでもそんな男を演じなくてはならないのでしょう。私はとうにやめてしまいました。できなかったのです。そう振舞うことがどうしても出来なかったのです。男らしさなどありません。あるのは人間らしさなのです。

 

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気分が変わる。

それでも良い。

 

一貫性が行動を止めるなら、今のまま行動を。