溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170716

渡り廊下

 気づけばもうすっかり日は暮れていたし、太陽はもう沈みかかっていて辺りを赤く染めていた。それでもまだ時間は12時過ぎた頃だったし、この時間のことをお昼と呼んでいるけれど、どうやらそれは様子の違うお昼のように感じられ、自分がどこか違う時間に紛れ込んでいたことを思い出したような気がしました。確か畳の上にいたような気がしたけれど、僕は確かに小学校の校庭にいたし、渡り廊下で寝そべっていた。近くにある鉄棒にぶら下がろうとすると鉄棒は抜けてしまって、一生懸命にそれを押させようとするけれど、こんなに簡単に鉄棒が抜けてしまって安全面はどうなんっているんだろうと、まともなことを考えようとし始める自分に嫌気がさした。それでも、子供たちは子供のままで、20年前と変わらぬ姿で鉄棒で遊んでいたし、それでも僕は鉄棒にぶら下がるより、渡り廊下に寝っ転がることを選んでいた。頭は確かに痛かった。枕もなしに寝っ転がっていたし、後頭部は硬さに耐えられなくて、何度も右に左に動かした。それでも渡り廊下にへばりついてしまったようにそこから離れることはなかったし、何よりその体勢の方が僕は風を感じ取ることが出来た。低空飛行を続ける風をどうにか体で捉えることが出来たのだ。地面を這うように、舞い上がるような、それなにそよそよと吹く風。決して何かを吹き飛ばそうとしているわけではなく、ただゆらゆらと水の上に浮いている船のように、存在したかと思えば消えて。何か様子が違うようなそんな気がして、あまりに静かであるように感じられるが、とうとう蝉が鳴き始めているし、もしかしてこの家から外に出たらもう人間は誰も存在なんかしていない世界に来てしまっているかもしれないと、そんなことだって思ったりする。世界はすっかり変わってしまっていて、それは僕が昼寝をしている間の出来事で、誰かが何かをどうこうしたというよりは、自分自身がどこかの次元に、時間に紛れ込んだようなそんな気がする。確かに20年前のままの姿で友達はそこに存在し、鉄棒で遊んでいるように見えたし、通り過ぎていった友達は中学校と変わらぬままの姿で、今も元気そうにニコっと笑ったのだ。だから、何か嬉しいと思ったのです。未だに、元気そうなあなたを見て、僕は嬉しかったし、また会うことが出来たことこそが嬉しかったのです。

 

みとぽこ

 ハラペーニョ。アタシはハラペーニョハラペーニョ伯爵よ。灼熱のハラペーニョ伯爵。伯爵尺寸、八百100寸であるよ。ですから、アタシハラペーニョである。ハラペーニョ男爵でもあります。ハラペーニョロナウジーニョハラペーニョ。のスリートップでありんす。みとぽこ参上。みとぽこは家出冒険家。ハラペーニョとみとぽこの出会いが織りなす、スペクタクルロマンスの最高傑作。ハラペーニョとみとぽこ。そしておっちゃん。おっちゃんは小吹雪と申す。リスがトラされた小吹雪と申す。小吹雪とハラペーニョは学生時代からの親友であった。しかし、当時戦時中だった日本で二人は別々の部隊へ召集されるのだ。お互いが生きているのか、死んでいるのかもわからずに、50年の時が過ぎた。そして、出会ったみとぽことハラペーニョ伯爵、そして男爵。ハラペーニョは小吹雪との思い出をみとぽこに話すのだ。みとぽこは家出冒険家。まだ7歳だ。ランドセルを背負っている。ランドセルという世界を背負って立つ少女だ。彼女は土曜日に家でした。次の日は日曜日。すなわちみとぽこは休みなのだ。ハラペーニョとみとぽこの出会いは運命的だった。渡り廊下で出会ったのだ。ハラペーニョは、渡り廊下で寝っ転がるみとぽこに出会ったのだ。スペクタクルロマンスの最高傑作。小吹雪のおっちゃんの運命は。みとぽことハラペーニョが見たものとは。スペクタクルロマンスの最高傑作。みとぽことハラペーニョの小吹雪大合戦。今夏公開決定。どうぞ、ご期待ください。

 

晩御飯

 晩御飯は、シャケの炊き込みご飯、鶏肉と大根の煮物。そして味噌汁。晩御飯は何にしようかと考える。大抵、お昼は一人でいるのであまり考えずにあるものを食べる。晩御飯はまた別だ。一人ではないご飯であるから、何が食べたいかと思いを巡らす。かといって、結局は自分が食べたいものが優先されることもある。だけど、誰かがその食卓にいることを思い浮かべると、ちょっとお肉だけじゃなくてサラダも一緒に出そうとか、自分一人では偏ってしまう食生活が、なんともバランスの良い食事に変わるようなそんな気がする。自分の好きなものと、相手の好きなものを組み合わせる面白さもあるのかもしれない。それでも自分の食べたいものが優先されてしまうこともあるし、それはそれで良い。だけど、一緒に食べるからこそ、少しの工夫と、考えを巡らすことが料理って楽しいものであると、そんな気持ちにさせるのである。一人で作るご飯はどこか作業的になってしまうこともあるが、誰かと食べるご飯には多少なりとも、作業的ではなく、何か特別な想いが入っているように感じられ「今日の晩御飯なに食べようか?」という言葉に何か、共に過ごすというような、共にいるというようなそんな気持ちが入っているような気がして、そういうのっていいなと思ったのでした。共に生きていくとはこういうことなのだろうか。どこか僕には遠いもののように感じられた感覚が、晩御飯の中に含まれている。そんな気がしたのです。

 

 

f:id:mizokoji:20170716143855j:plain

気になってしまうことは、仕方ないというか、良いこと。

それを糧にまたやるのです。

続けるのです。