溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170718

 蝉が一斉に鳴き始める。何か、決まった合図でもあったかのようにである。それまでは静かな時間が流れていたのに、蝉の中での鳴き始める時間は決まっているようにも思えて、その鳴き声が流れ始めると、より一層暑さが増してくるような気がして、布団でゴロゴロとうなだれるのである。不思議だ。蝉はシフト制のような働き方でもしているのだろうか。ある一定の時刻になると一斉に鳴き始める。トンビもそうである日は全く空を飛んでいないのに、ある日はたくさんのトンビが優雅にクレープを狙いながら飛び回っている。トンビには定休日というのがあるのだろうか。クレープ屋さんがお休みの日は休みといったような。今は夏で書き入れ時。商売繁盛。繁忙期。トンビのお仕事も大忙しの時期なのかもしれない。ここで売り上げ確保せな大変やで!と言わんばかりに空を巡回しているようで、みんなそれぞれ懸命に生きていると思うわけである。カラスには割と休みというのはない。平日や祝日関わらず家の周りをウロウロしている。カアカア言いながら、ウロウロしている。かと思えば、蝉だけになる。時折、蜂が一人でふらふら飛んでいる。この辺に家でもあるのだろうか。リスは時々、電線を駆け回っているし、ツバメはあちこちに巣を作っていて、最近はまた鎌倉駅の改札上にも戻ってきたらしい。いろんなところ行ったりきたりしているけれど、それでもこの辺りに住んでいるのかそれとも渡り鳥のような暮らしをしているのか。蝉は数週間の命かもしれないが、その瞬間懸命に声をあげるし、その余韻のおかげで一年中蝉のことは忘れずにいるわけである。なので、蝉は一年中僕の中で生き続けているし、あんだけミンミン鳴かれたら印象づかないやつの方が珍しいし冬になっても「蝉ってうるさい奴だったよな」と熱燗でも飲みながら、蝉との懐かしい思い出話に花が咲いたりするのだと思う。まあ、とにかくカラスはまた、カアカア言いながら家の前をうろちょろと飛んでいるし、たまにカラス同士でちちくりあっているから仲がいいのかと思うと、割と真剣に喧嘩しているようにも見えるので、まあ遠慮しないで言い合えるのも仲が良いのかもなんて思ったりもする。夏はなんだか活発に見える。人も動物も開放的だ。そう開放的なんだ。

 

ゴミ

 夏の人は開放的だなんて思いながら、ギターを弾いた帰り道海沿いの道を歩いてみた。最近は、小さな広場でギターを弾いている。なので、海の手前までいって海にはいかなくなっていた。そうそう、それでなんとなく海沿いを歩いてみたら、それはまあひどい。ゴミが大量に散らばっていた。ローソンの前なんてひどい。コロッケかチキンの袋とか散乱しているし、ビールのプラコップ、アイスの紙ゴミ、ペットボトル、空きカン、タバコの吸殻、荒れ放題の荒らし放題だ。僕は日本人の民度というものに疑問を抱かずにはいれなかったが、確かに学生くらいの時はゴミを捨ててしまったこともある。しかし、よくよく考えて見るとこれは何かの足跡というか傷跡のようにも見えてきたのだ。「ゴミを捨てるな!」と叱ったり、罰したりするのは簡単だ。それでもなくならないから今もこうしてゴミは落ちているし、きっと三連休で開放的な気分だったんだろうなみんなとも思ったりする。そう、多分開放的な気分だったのだ。普段仕事してきっと抑圧されているのだろう。何かに縛られながら、それに耐えて仕事をしているのだろう。そりゃ、海に来たら開放的になるし、ちょっとくらい羽目を外しても、何か大きな海に許してもらえるんじゃないかってそんな気持ちになるのもちょっとわかる。そんなわけで、なんとなくそのゴミの荒れ具合が縄張り意識のようにも見えたというわけである。「俺はここにいるぜ!」「ここは俺様の縄張りだ!」といったような。きっと普段縛られているから、ここは俺の場所だ!と言いたくなったのかもしれない。そもそも土地なんて所有できないだろうけども。そして俺のことをお前は所有できないという悲痛の叫びなのである。それがゴミを使った、マーキングで現れたのではないだろうか。そう思うと、大地はみんなのものだというか、ここは俺たちの場所だみたいな気持ちの現れなのではないかと思えたりもする。大地は所有できない。俺たちのこともまた所有できない。そして大地も所有はできない。静かな反乱だ。会社で言うことができないから、海で言ってみようということなのかもしれない。ゴミをポイポイ捨てるなんてマナーがなってない。すぐに規則だ、罰則だと人を縛り始めるがそれこそ逆効果なのだと思う。人を縛ることは誰もできない。しかし、縛られないことを恐れているのもまた人なのだ。自制が出来ないのもまた人。だから誰かに縛られているのだろう。そして縛っていると思っている人も、また縛られている。散らかっていたゴミは何かの現れなのではないか。大地は所有できない。ここは公共の場所だと言う意識。だからゴミ置いて行ったのではないか。やり方がスマートとは言えないが、普段の抑圧や束縛がそうさせているのではないかと思ったのだ。けれど、その束縛から自由になろうとしていないのかもしれない。それが当たり前と思考停止しているのかもしれない。解放のさせ方が不器用なのかもしれない。ゴミを置いていかなくてもよいのかもしれない。もっと楽になれたらいいね。抑圧とか制圧とかそういうの嫌よね。だからやるのだ。ゴミ捨てなくてもそれを表現できるやり方を見つけるのだ。紙とペンあれば出来るよ。そうやって、外に投げるんじゃなくて、内に向くのだ。内に向けるのだ。そうしたらもっとその公共の感覚が広がっていくのだと思う。俺たちは所有物じゃないという意識が広がっていくのではなかろうか。俺たちは誰にも所有することが出来ないのだと。叫びたいのかもしれませんよ。

 

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みーさんとゴミ拾いしたいねと話してました。