溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170719

メープルシロップ

 「あれ、メープルシロップがない」

 みーさんが冷蔵庫を開け、メープルシロップの瓶を覗き込んでいる。僕は布団の中で小さく挙手をしながら答えた。

メープルシロップはパンにかけて食べました」

と、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声で。

 朝はそんな感じでスタートした。みーさんはメープルシロップが蒸発してしまったかと思い焦ったそうだ。決して、僕がメープルシロップを使い過ぎたことに声をあげたわけではないということ。思っていた以上に減っていたことに驚いた。そりゃそうだ。僕だって、思っていた以上にメープルシロップがなくなったことに驚いている。「こんなにかけて食べたかしら?」といった具合だ。冷蔵庫の中は未知なる世界だ。閉じている間のことはわからない。それでも冷蔵庫の締め切られた空間の中では、様々な食材や調味料が混在する。みんなそれぞれが居場所を確保し、生活をともにする。暑いとも寒いとも言わずに、ただ冷やされる。どちらかというと寒いはずだが、食材にとってはそれくらいの気温がちょうど良いってこともある。そういえば、冬から春の間は冷蔵庫がない暮らしをしていた。今は夏。やはり冷蔵庫がないと食材が腐ってしまったりしそうだが、工夫すれば冷蔵庫だって必要ないかもしれない。最初、冷蔵庫を買わずに、簡易冷蔵庫を作ってやってみようかという話もしていた。結果、今の今の状態であれば一旦は冷蔵庫があったほうが生活はしやすいだろうという結論を出し、冷蔵庫のある生活をしている。相変わらずクーラーはない。家の中の消費電力の大半はクーラーらしい。うちはなんとかなくてもやっていけそうである。いまのところは。風は通るしね。

 

森が気になって

 昨日は、ヒョウが降り始め、雨が一気に落ちてきた。雲行きが怪しくなると雷がドーン!と鳴った。雷の音は怖いというか、怒号。僕にとっては恐怖だ。それでも、自然が起こす現象は何か自分を改めて見つめるきっかけになる。全ての音がかき消されてしまいそうなほどの雨音を聴きながら、僕は少し自分一人になる。雨音と共にいるような気持ちになる。どうも、最近森が気になっている。森に行きたいと思うことがある。海も鎌倉に住み始めていいなと思うが、この季節はどうしても人が多いので苦手だ。森は僕の中で、切り離せないような関係なのかもしれない。数年前カンボジアに行った時、自給的な森を間近で見た。森を作っていた。そして布を自給していた。糸にするための素材を。蚕や綿。そして染料。葉っぱも染料になる。もともと買っていたらしい。だから落ち葉もお金なのだ。それを見た時、僕がやりたいのはこれだ!と思った。こういう生き方なんだと思った。しかし、もう少し僕自身を辿って見るとそれは僕が20歳を過ぎた後に見つけた自分の思い描く姿であり、もっと前にも自分の思い描く姿があった。僕は絵を描くことが好きだったし、ギターを弾いて歌いたかった。そういうちょっとした置いてけぼりになっている僕の気持ちを救済することから僕は始めた。こうやって書くことは、10代のころぼくが見つけた自己表現の方法だったのだと今は思う。僕は、カンボジアから帰ってきて、コーチングやワークショップなど仕事にしようと思って始めた。しかし、始めて思ったことは「僕は人をどうこうと導こうとしているが、自分自身に耳を傾けることができているだろうか」という疑問だった。今となってはそういう経験が、自分自身を作り上げていると思うし、遠回りしているようで無駄なことはないのだろうなと思う。僕は少々時間がかかる。それでもいいと思っている。もしかしたらまだ早いのかもしれない。今、気付けていることは良いことだ。そうだ、それで最近森が気になっているのだ。それで何が気になっているのかというと、自給的な生活についてということだ。これは食だけではなく様々なものを指す。経済や政治。教育、医療。衣食住。そういったものをどうやって自給するか。そういう生きる知恵を僕は身に付けようとしている。多分、住んでいる場所にあった生き方の工夫というのがある。僕はいま鎌倉に住んでいるが、都会と自然が混在している。今の僕にとってはちょうど良いと思ったりもする。0円でも生きていく力と経済を自ら作る力。貨幣を自ら発行するということだ。その試みをどうやって進めていいかわからず、今は毎日ただこうやって書いていることしか出来ずにいる。そして描いている。何か、自分自身の行動を促したいのだと思うが、辛抱しなさいというのがいま出てくる。今は、何かこう内側を旅するようなことがしていたいのかもしれない。かといって焦りもある。お金はどうするのかとか、どうやって生きていくのか。そういうことを考え始めると、不安で仕方ない。だからそれに飲み込まれないためにも、逃げるように創造を繰り返す。誰かに認められたいし、売れたいとも思う。それでも、誰も見ていなくて、誰にも理解されなくても、僕は作り続けるしかないのだと思う。ヘンリー・ダーガーのように死ぬまで作品が発見されず、何をしていたのかわからなかったというような人もいる。僕はそういう人生も憧れるが、どうしても社会との接点を求める。決して悪いことではない。人と関わりたいとも思うのだ。苦手ではあるが、自分自身で社会との接点を築いていけたらいい。今は、まだまだ訓練が必要なのだと思う。だから、やめずに続けるしかない。いたって単純なのだが、そういうことだ。それがわかっているけれど不安になったり、心配になったりする。それでも逃げ惑うように今日も生きるのだと思った。

 

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今日は夜に鎌倉の花火大会。

ちょっとそわそわした感じが広がっています。