溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170721

ご飯

 朝ごはんはコーンパン。マヨネーズを塗って焼いたパンにコーンがトッピングされている。それと、生ハムサラダ。オリーブオイルをかけて。アイスカフェラテも一緒に。晩御飯は、ボンゴレのパスタだった。アサリの砂抜きから。夜に始めたので、50℃くらいのお湯に擦り合わせながら浸し、15分くらい置いておくと早く出来ると知る。実際にやってみる。中々、お湯も濁ってきて驚く。それでも、ぬるすぎると雑菌が繁殖してしまうし、暑すぎるとアサリが茹で上がってしまうらしく、中々繊細な奴だ。オリーブオイルをフライパンへ。そこに刻んだニンニクと赤唐辛子。これらは実際に一緒に炒めることで風味がつく。ニンニクと赤唐辛子のピリッとした味がアクセント。白ワインを投入。香りが漂う。アサリを混ぜ合わせる。最初は強火で。途中からは中火の弱火だそうだ。どっちつかずな火の強さ。中火の弱火。絶妙なバランス感覚を試されているようだ。隣で沸かして置いたお湯にパスタを投入。数分経って、お湯を切り、作って置いたボンゴレにパスタを混ぜ合わせる。静かにうまいと言いたくなる味。少し、大人の装いを感じる味。「おいしいね!」と言うよりは「結構なお手前で」と言いたくなる。

 食後は映画を観る。「アパートの鍵貸します」だ。白ワインに、生ハムクラッカーカマンベール。蜂蜜を添えて。花火の時に食べて残っていたポップコーン、家で映画見る時用に買っておいた、麦チョコ。あとはアーモンドやドライフルーツが混じったもの。映画を楽しく観るにはおつまみの存在も必要不可欠。おつまみが胸をドキドキさせることだってあるからだ。今回は、気持ちよく観ることができた。すごく考えさせられる訳でもなく、感情を揺さぶられるでもなく、楽しかったと言えるような感じだ。大脱走を観たときはこれとは全く逆で、夜あまり眠れなくなってしまったのだ。とはいえ、最近本当に眠たい。お昼過ぎカフェに行っても寝るし、カフェに行く前も仮眠と言って寝ていた。夏は行動的になると思っていたが、まったく逆で僕の場合は眠気を誘発するのである。その日の状態によっても、もちろん変わるのかもしれないが、とにかく眠い。お昼過ぎは特に眠い。夜も眠い。どれだけ寝ても眠いのだ。

 

計画

 来週、西湖に行く計画を立てる。僕は計画を立てるのが苦手だ。行ってみなきゃわからないとか、やってみなきゃわからないとか、行動して考えればいいと思うところがある。というよりは、いっそ行かなくてもいいかという気持ちさえしてくる。行く理由って何かあっただろうかと考えてしまう。それでも、いつもと同じことをいつもと違う場所でやるのは何かいいなと思った。なので、ギターを持って、画材を持って、西湖に行くのだ。パソコンは置いて行って、この日記小説と名付けている書き物は、西湖にいる間はお休みにしてみようかとも考えている。と言いつつ、結局パソコンを持って行く気がする。今はとにかく書きたいとも思うからだ。ここでの文字だけ書いて、あとは使わないと言うのが良いかなとも思っている。そうそう、それで湖と森に行くことになったのだ。あと、僕は車の運転がしたいと言うこともありレンタカーを借りることにした。運転が意外と好きなのだ。しかし、これも体調による。眠気がひどい時などはかなり辛い。だからいつも無理しないようにしているし、みーさんも休もうと促してくれる。運転するのはなんだか自分の空間であるし、助手席に座っているみーさんとの空間でもある。その時間が僕は好きなのである。喧嘩しても運転席と助手席の距離は変わらない。でも果てしなく近すぎるようにも感じるし、果てしなく遠いようにも感じる。車内の空気は一変するのだ。それでも、そういった様々な時間を車内の狭い空間で過ごすと言うのは僕は有意義な時間だと感じているのだ。あとは、近くに日帰り温泉があるらしくそこにも立ち寄って帰ってこようということになった。日の出を湖と一緒に過ごすのだ。みーさんは湖が身近にあるらしい。いつの日も思い浮かぶのは湖なんだそうだ。僕はそう言われると森がすぐに思い浮かぶような気がする。それでも今の所、遺骨は摩周湖に蒔いてもらおう思っている。そんな、ちょっとした旅の計画をしたってこと。なんとなく、僕にとっての居場所探しでもある。とはいえ、実際に探している訳でもない。最近、なんとなく居場所というキーワードが頭をちらつくのだ。僕は、東京に生まれ東京に育った。僕にとっての田舎は東京なのだ。しかし、そこを居場所と感じることは中々出来ず、どこか疎外されているような感覚がつきまとっていた。かといって親も東京育ち。おばあちゃんは長野とかその辺り出身のようだが、その田舎にあまり帰る機会もない。なので、僕にとって田舎というものがあまりないのだ。だから、僕は田舎を作りたいと考えていたこともあってそれは未だに考えとして浮かぶことがある。ようは居場所なのだ。自分にとっての居場所はどこにあるのか。そのことをずっと考えていたし、探していたし、今も結局そうなのだと思う。心のどこかで居場所を求め続けているのだ。実際に、居場所なんてないんだよなんて言ったらそれまでだが、どこか憧れのようなものがあるのかもしれない。きっとどこかにあるはずだという空想的と思われそうな居場所だ。それは確かに、自ら作っているのだとも思う。確かにこうやって生み出している。今この瞬間に僕は自分の空間の中に巣を作り、そこで生活をしているのだ。しかし、実際の僕が存在するための社会での居場所というか、社会の中の居場所みたいなものがどうしたら僕は築くことが出来るんだろうというのがいつの日も問いとして浮かぶのかもしれない。花火は一瞬で消えてしまう。それでも毎年開催されることで夏になれば花火を見に帰ってこれる。それは居場所なのだと思う。だから、湖や森もきっと人が手を下さなければ消えることはなく、きっといつの日もそこにある居場所のようなものであるのだとも思った。どうしても、僕は居場所は長く続かないと考えてしまう。永遠ではないという思いがある。実際にはそうなのかもしれない。人間の作るコミュニティなんて一瞬だ。だから、そこに縋っていてはいけないし、外的な要因ではなく自分の内側に居場所を作ることが大切だと思っていた。それでも、心のどこかでいつでも帰ってこれるような場所が、どこかにあるような気がして、それを僕は内心必死になりながら探しているのではないかと思うのです。

 

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暑い日が続きます。

それでも風が通ると涼しくて嬉しい。