溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170722

依存

 本場のカルボナーラは生クリームなどは使わずに、シンプルにパルメザンチーズと卵だけ。もちろん、厚切りベーコンは欠かせない。炒めるのはオリーブオイルを使っていた模様。卵のサイズが小さかったので、卵の大きさによって使う数は変わってくる。その場に合わせて臨機応変に対応することも、また経験。白ワインと合うパスタ。みーさんのパスタレベルがかなり上がっている。お店で出てくる味だ。それよりもうまいかもしれない。なんせ、うまいうまいと言い合いながらたべれることが何よりもうまいからだ。ホタテは何もしなくてただうまい。最強の食べ物だ。白いお肌にプリプリ食感。何遍食べても忘れられないホタテの味は、なんどもご飯のおかず、いやメインとして食卓に登場するほどだ。ホタテを食べるとその食感に胸がドキドキする。肌をムニムニ甘噛みしているようだからである。ムニムニ。ムニムニ。その食感がたまらない。それに味も。ホタテに埋もれたい。あといくら。ホタテに抱かれ、いくらの海に溺れたい。海には幸がたくさんある。うまいもんはうまいのだ。白ワインも最近おいしい。アルコール依存症になるのではないかと不安になるが、別に依存したって構わないじゃないかとそんな気持ちになってきている。僕は一人でしっかりと生きることが素晴らしいと思い込んできたようだが、別に依存したって構わないじゃないかと思ったのだ。人に依存したって、ホタテに依存したって、いくらの元を離れることができなくたって、アルコールに依存しそうで不安になったって構わないのだ。何かがあって不安を解消できて、共に生きることができるならそれでもいいじゃないか。それでも生き延びることが出来るのならいいじゃないか。とはいえ、そんなことを考えていながらも、いまこうやって書き進め始めるとそういうった依存心はすっかり消えて無くなったような気さえしてくる。書くことに依存しているとも言える。それでも、いま呼吸ができていると感じているし、こうやって言葉が流れるように出てくる感覚、その状態は何も敵がいない。ただ、言葉を書き連ねることで僕はそういった不安や依存への恐怖から逃げ出そうとしているし、こうしている間にも僕は一人堂々と生きているような気さえしてくるのだ。僕の日常抱える不安は一体どこへ行ってしまったのだろうか。これが創造行為の効果なのかもしれない。何かへの依存心は創造へのエネルギーだ。矛先を変え、行き場を作ってあげるだけなのかもしれない。誰かにすがりつきたいとか、もっともっと愛されたいとか、居場所が欲しいとかそういうのはエネルギーの現れなのだ。エネルギーが行き場を失い、体の中へ押さえ込むしかない状態なのだ。その行き先を作ることがひとつ必要なのだ。なにも書くことだけでなくてもいい。継続していくことだ。明らかに、何か調子が変わってくることに気がいている。書いている間はなんとか持ちこたえている。依存先を変えているだけなのかもしれない。それでも文字は生まれるし、流れてくる。

 潮騒。音楽。休符。それでも音はあるし、音のない場所も音楽だとそう言っていた。ずっとずっとなり続ける音には嫌気がさすこともあるだろうが、空白が、余白が、胸を打つのだ。静まり返ったその瞬間こそが、何かを訴えかけるのだ。焦ってはいけない。だから焦ってはいけないのだ。その空白を味わい尽くさなくてはいけない。

 私は今流れ込んでくる動きを書いているだけであり、特に意味はない。そもそも意味など求め始めることが私にとっては理解ができないでいる。そんなことをする時間を私は持ち合わせていないし、契約もしていない。だから私はただ行動をしているだけであり、それは貧乏ゆすりとなんら変わりのないことだ。私は貧乏ゆすりなのだ。ただの揺れであり、それがただ単に指の動きであるのだ。これは運動だ。スポーツ。マラソンだ。体力勝負でありながらも、私は瞬発力を重視する。瞬発力を欲している。しかし、毎日を続ける持久力も必要になってくる。何かを捨てることなど出来ない。私には必要なのだ。必要なことばかりだ。全てを悪にすることができない。あなたが発した「変に助けようとしないでください」と言った、あなたが酔っ払いながら私に発したその言葉も、私は怒りを覚えながら、あなた自体を悪にすることができないのである。それは私に対する教えであり、私に対する贈与である。しかし、そのことが未だに私の体の中で存在し続けるし、反芻し続けている。私は、反芻し続けている。これまで私が体験したことを未だに反芻し続けているし、後悔しないようにしたいと願い始めているこもまた事実である。

 私は、確かに浮気をしていたし、そしてされたのだ。そのことに私は深く傷ついていたが、その後に私を救ってくれたのは女性であった。年下の女性。献身的な介護を受けた。私は20代にして介護の対象となったのだ。介護者なくしては生きることが出来なかったのだ。私は介護を受けながら生きている。未だにそうだ。介護の対象なのだ。しかし、それを依存ということはどうしてそう言い切れるのだろうか。活かしあっていると言えないのだろうか。私は後悔をしている。なぜ女性に生まれることが出来なかったのかと後悔している。私は女性の良い面ばかりを見ている。なぜなら、私には女性の良い面ばかりが目につくからであり、私は女性の肌や声のような美しさに到底追いつけないことを悲観的に捉えて生きることしかできないのだ。それでも私は男性として生きることを選んでおり、決してそれを変えようとは思っていない。ただ私は男性としてみられることにうんざりしているのだ。ただ男の体として見らえることは構わないが、それにともなって男らしさの教養や社会的な男のあり方にもう、うんざりしているし、私は男性として生きていくことに自信をすっかり失っているのだ。どうしても筋肉はつきづらい体であったし、身体的に劣っていると感じるのだ。どうしても暴力的な世界に見えて仕方ないのだ。それなのに、私は男性らしさを強要されていたし、重いものがあったら男性が運ぶとか、女性をエスコートするものだとか、女性を養わなくてはいけないとか、家族を守らなくてはいけないとかそういう暗黙のルールに僕はついていくことが出来ず、それもまた自信を失う原因なのである。そのように生きることが出来ないことを嘆き、また男性であることを嘆くのである。暴力に屈するのである。力に屈することしかできず、私は弱いままにまた依存し始める、よりかかりながらも生きているのである。

 

 

f:id:mizokoji:20170722123554j:plain

昨日から500文字増やし、2500文字で書くことにしてみました。

ただの運動ですので、意味はありませんのよ。

日記小説なので、真実であり空想である。

それでも言葉にしている。

その連続を試しています。