溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170724

ポトフ

 サラダとポトフを食べて、少し穏やかに静かにゆっくりとご飯を口にできた事がとても嬉しく感じられた。レタスを絨毯にして、コーンと舞茸、ベーコンを置く。そしてレタスで蓋をする。レタスのサンドイッチが出来上がるらしい。これは目の前で行われた出来事だったし、実際に声として聞いたのでその通りに出来上がるレタスのサンドイッチを見て僕は微笑ながらその光景を眺めていた。ポトフはじゃがいもがホクホクしていたし、とても柔らかくてもちろん暑くて汗は出るけれど、それは嫌な汗ではなく、栄養のあるものを体に取り込んだ感覚というか、少し地に足がつくようなそんな気がして、じゃがいものありがたみを感じたのです。かぼちゃはほんのり甘く感じられたし、皮をまとっていた時のゴツゴツした時とは裏腹に、口の中で溶けて行くような優しい食感がしました。玉ねぎはすっかり柔らかくなり、スープと溶け合っているような気がしました。コンソメの黄金色と玉ねぎの白みがかった透明さが不思議とマッチして、コンソメだけでは物足りない色味を補っているようにも見えました。玉ねぎは血液をサラサラにしてくれるという。玉ねぎはスープの中で隠れているように見えながら実は一番の働き者かもしれないと僕は思い、玉ねぎがいることも忘れないでいたいと思うのだ。アクセントになるのはウインナーだった。買い忘れた僕は慌ててコンビニまで買いに走った。やっぱりあるのと無いのでは、アクセントが違う。パリッとしたあの食感が野菜の柔らかい食感を引き立てるし、少しの量で、何か特別感を演出する力がウインナーにはあるように思えた。熱いスープを、家の中に入る風を浴びながら食べるのも悪く無いなと思ったし、なんだか心を落ち着けてくれたのだ。穏やかに、ご飯を食べている気がした。ご飯をちゃんと食べれているような気がしたのだ。それが何よりも嬉しかったし、ありがたいことだと思った。

 

 僕は点があることに気がついたし、そのことを教えてもらった。紙の表面に目がいっているときは調子が悪いように感じるし、紙の奥にある点を見ようとしているときはどこか調子などでは言い表す事が出来ない世界にいるように思えた。僕は点の存在によりかかった。それは依存しているようにも見えたかもしれないが、僕は自立しながら頼ることを心がけた。それが答えではなく、ひとつの指針であるとこを意識した。決して、それが全てだと思ってはいけないと考えている。答えは無限にあるし、その一点はそのひとつに過ぎないし、答えとは限らなかった。それでもそこに点があることを知ったとき、僕は嬉しいと感じたし、紙の上に絵の具を塗りつけることに喜びを感じていた。これが僕の描ける色だとも思った。点は確かに窓の外にあったのです。海の向こうに、空の向こうに、宇宙の向こうにその一点はありました。それは星のようにも思えましたが、それよりも先のただ一点を見つめることが、私にとって何かの居場所を見つけたような安堵感を覚えたことを僕は知っていました。僕と私はいま混合し始めているし、それは自然なことであった。どちらも一点であることに変わりはないからです。だからその発見は大いに私たちを喜ばせる事が出来たのです。紙の表面に色を塗るのではなく、紙の奥にある点を表出させるのだ。紙の奥の奥の奥にあるその一点を見つけることに喜びがあるのだと私たちはそう確信したのです。この発見こそが重要であり、描かれるものはそこまで重要では無いのです。それでも僕は描かれるものにも目を向けたがるし、そこに表出する色を試行錯誤し、まじり合わせ、時には単色でただ置く事が、一点につながると信じてやまないのだと思いました。

 

回想

 調子が悪いと思い込んでいるその事象はエネルギーが不足しているわけではなく、車でいうとガソリンがなくなってしまったわけでは無いという事が言いたいのですが、要は、うまく機械が動作しなくなっているだけであり、排気口からうまく煙が出ないというか、体の中でのエネルギーの循環が滞り、うまく排泄が出来ていないことを示しており、すなわちそれは体の中での停滞を産み、そこで渋滞は起こり、クラクションが鳴り響くその状況に耐えられず、体を動かす事が出来なくなっているように感じられたのです。それでも、運動を繰り返すことに意味があるし、手から生み出されるそのエネルギーから溢れる力強さに私は信頼を置いているのだと思いました。たかが手ひとつかもしれない。それでもこの手を動かす事ができるのであれば、喉を鳴らす事が出来るのであれば、それは体全体の喜びであるし、それこそが私自身の喜びであると感じるのです。なので私はエネルギーが不足していると思い込んでいたのですが、どうやらエネルギーは有り余っており、ただ停滞し、行き場を失っているのではないかとそう思い、仮説を立てているのです。これは、私にとって、これまでとは全く違った捉え方であり、そこに休息はなし、永遠の運動を意味します。休む事なく動き続けるのです。休むとはなぜ必要なのでしょうか。呼吸は休むことはないし、私は心臓を止めることはありません。私たちは休んでなどいなかったのです。休むとは人間特有の概念であり、私たちはただ運動を繰り返します。私たちは止まる事がありません。だからあなたも動き続けなくてはいけない。休むというならば、流されていなくてはいけない。その流れに足を踏み入れなくてはいけない。防波堤を作り水をためて置くならば、そのまま水を撹乱しなくてはいけない。汚れを撹乱するのです。決して汚れを排除しようとしてはいけない。そのままの状態をただ撹乱し続けるのです。その渦の中に飲み込まれれば良いのです。それこそが休息であり、その渦の中でこそ息を休めるのです。それは息を潜めることにも似ています。外で起こる季節の変化に肌で感じ続けるのです。それが私たちの休息であり、休息を終えるコツであり、運動であり続けるためであるのです。そこには知りたくない事実があったし、それはルールだと社会的に言われてしまうことに、争うこともなくただ流れるしかないことを知っていなくてはいけない。時に冷酷である。守ろうとなどしてくれていないことを気づかなくてはいけない。その点があることも知っていなくてはいけない。作らなくてはいけない。だから私たちは自ら作り始めなくてはいけない。独立しなくてはいけない。立ち上がらなくてはいけない。しかし、血を流してはいけないのだ。だから、書かなくてはいけない。そうやって言語を文化を作っていくし、絵を描くことをやめないのだと思いました。楽器を手に取ることをやめてはいけないし、歌うことをやめてはいけない。決してそれは特別なものではないことを知っていないなくてはいけない。新しく作る気があるのであればだ。それは創造であるし、生きる事が創造になるということであり、決して休むものではないのだ。休息は撹乱の中にある。その渦の中にある。流れなさい。手を動かしなさい。あなたの手から変わります。私はそのことを知っていたし、私が知っている事が重要なのです。あなたの手が必要なのです。そして喉を鳴らすのです。それは響きです。伝わり続ける響きなのです。その声を、あなたから流れる声を私たちは聴き続けなくてはいけない。声は重要な文化財であり、誰にも崩すことのできない、重要なものである。だから声を失ってはいけないのだ。声をあげなくてはいけないのだ。

 

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近頃、Sam Amidonをよく聞いている。

声が、好きなのだ。