溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170727

祈り

 僕は確かに祈っているようだった。何か信仰をしているわけでもない。ただ、眠る時不安なことが舞い込んで来た。悪いことが起こらないようにと、安全に過ごす事ができますようにと僕は祈っていた。「起こること全てに意味がある」なんていうこともある。僕もそうやって捉えようとする。それもある意味何かの信仰なのだとも思ってる。それでも僕は、安全に楽しく生きたいと、事故や不幸が起こらないようにと祈っていた。それは僕が勝手にやっていたことで、誰かに頼まれていたわけではない。僕はことあるごとに祈っていた。願いに近かった。僕の願いを伝えていた。小学生の頃からだった。そういう習慣があった。僕にはそういうった習慣があったのだ。生まれた時からあった。僕に特定の宗教の信仰をしているつもりはないが、それでも祈る意味があると感じていたのかもしれない。それは優しいものであったし、頼れる存在だったのかもしれない。しかし、願うよりは聞きたいと、そう思ったのだ。これはふと思ったことで、思いつきだ。何か特別な意味を考えようとはしない。ただ、聞こうと思った。これも度々行っていることだった。「ゆっくり、静かに、慌てることなく。」そんな言葉が聞こえてくるのだ。僕はすぐに慌ててしまうし、できれば早くことを済ませたいと考える。心を荒立て、早く早くと急き立てる。理由のない焦り。焦っているのだ。ただ、焦っていた。自信のなさから焦っていたのだ。僕はずっと焦っている。ただ焦っているという感覚がある。どうにかそのことを言葉にしようとしている。人を見るたびに比較し、自分の劣ることばかりを見て来た。誰かに頼まれたわけではない。ただ人の良いところが、僕の目には浮かび上がり、それを見て自分には才能がないと思い込み、何もかもの自信を失って来た。しかし、それは僕にとって周りにいた友達こそが才能であり、それこそを活かすための仲介役でしかなく、僕はただその才能を見つけるための一器官にすぎず、それを活かすことも悪くないかとそう思い始めている。それなのに、僕は人に怯え、何か罵倒されるのではないか、男らしさを求められるのではないかと、ありもしない不安を抱いている。抱いているが故に素直になることも出来ず、武装するのだ。理論や知識で武装をする。しかし、僕よりも頭のいい人間など山ほどいて、言い争う勇気など僕には到底なく、今もこうしてありもしない争いを作り出し、怯え、平和な世の中がいいと自ら生み出す争いに嘆いているにもかかわらず、社会だ世の中だと、どこか他人行儀なことを言い始める。無意識での革命。現実で革命を起こそうとしてはいけない。そこで努力して躍起になっても仕方ない。落ち着かなくてはいけない。

 

早朝

 無意識に飛び込むのだ。私は朝の時間に安心していた。隣では妻がまだ眠っていた。イヤホンをして音楽を聴いて、少し目を瞑った。その時間にこそ私の居場所は存在しているような気がしたのだ。寝ている時間だった。人が寝ている時間だった。それは早朝。深夜ではいけない。深夜と早朝は違う。早朝の時間こそ、穏やかな時間があった。この時間にこそ、時間の広がりがあるような気がしたのだ。その感覚がようやく掴め始めたというか、ここに何かがあるのかもしれないと、そう知覚し始めているのかもしれない。私は揺れている。それは、揺れであり、その揺れこそが何か言葉を流し込もうとする一つの運動なのだとも思っている。それでも、朝が弱い僕は少し貧血気味で、深呼吸を何度も繰り返すし、ここではない場所にまず起きた時間を書き記し、自分の状態を書き記すのだ。調子が良いと感じているか、悪いと感じているか。昨日から調子が良いと感じることのできる朝を迎えることができている。それは環境に飲み込まれないし、自分でコントロール出来ている感覚があるということだ。私は圧倒的に見えない世界に支配されているのだとも思えている。それは無意識であり、声である。それは近くで聞こえるものではないのかもしれない。どこか遠くで泣いている声、叫んでいる声。声にならない声が、私の体に集約し始める。それを通し、流していく。これは通過儀礼のようなもので、苦しいと感じることすらある。それでも、何かこうして書かなくてはいけないような、何かに駆られてこうして書いている。耳を済ませている。時間に、早朝という空間に耳を済ませていた。見逃してはいけないし、聞き逃してはいけないのだ。私は人が眠っていることに安心した。早朝に人が眠っている中で書いていることに安心したのだ。安堵感に包まれていた。人が眠っていることに安心しきっていたのだ。

 

涼しい

 昨日から涼しいと感じる。うだるような暑さとは打って変わって、半袖短パンではさすがに寒いと感じてしまい、上着を一枚羽織る。暑さにうなだれていたにもかかわらず、いざどこかへ行ってしまうと、少し寂しい気持ちにもなる。僕は暑さに苦しめれていたわけではないのだと思う。それでもきっとまた暑さが戻って来たら「やっぱりちょっとうざいわー」とか自分の都合でああだこうだといい始めるのだ。人付き合いみたいなものだ。会ってない時は懐かしんだり、どこかそのことを思い出したりして物悲しい気持ちになったりするが、いざ会ってみるとやっぱりちょっとうざかったり、もうしばらく会わなくていいやとか、一人になりたいとか思ったりするのだ。一人でいるときは寂しいとか、悲しいとかそういうことを言い始めるのに、都合がいいのだ。都合が良くていいのだ。その時はそう思ったんだ。その時は。その時よりも深い場所に。奥には点があって、その点はとても頼りになった。それは紙の奥にあったし、窓の奥にあった。その点を頼りにした。きっと毎日移動する。多少なりとも微細に動いている。その動きを感じるのだ。季節もそうなのかもしれない。毎日動いている季節を総称して、夏とか秋とか言ったりする。それでも僕は秋の季節が好きだなと思うし、今日みたいな夏から涼しくなって来たこんな空気が好きなのだ。それでもまだ夏は終わってないこともわかっていて、暑さが和らいで安心しているようだけれど、どこか寂しいと感じていたりもするけれど、どうせ明日になったらまた夏終わらないかなと、夏にとって元も子もないこと言い始めるのだろうと思う。それでもこの早朝の時間はやっぱり好きで、人が眠っている時間が安心だった。深夜ではなく早朝。

 

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今日はこれから西湖へ。

安全運転でお願いしまーす。