溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170728

いつも通り

 いつもと違う場所。それでも、やることは変えずにいつも通り。車の運転は緊張する。慣れるまで、気を張っている。慣れてきても気を張っている。慣れて来た時が油断しやすい。緊張感が背中を伝って、少し張っているような。だから気を張っているし、背中も張っていて、それでも車から出た時に空に手を伸ばして、身体中を伸ばすとそれはとても心地よく、そこはとても静かで、そよそよとただ揺れていて、体の中に空気が入り込んで来て、ああ息ができると喜んでいるというわけでもないけれど、自然に戻ったというか、嬉しくも喜んでるわけでもないけれど、感情的にはそうなのだけれど、それでも体自体は喜んでいるような気がする。体は素直に反応していて、やっぱりそれは窮屈な場所にいたのだから、高い建物もなく、あるといったら木々の連なりや山で、山は本当に三角だなんて今更ながら、そんな感想を言ってしまう。山は本当に三角なのだ。沢山の三角が連なって山になっている。山は三角の形をしてるなんてさも当たり前のようであるけれど、それでもやっぱり間近で山をみると、と言ってもやっぱり遠くからなのですが、ああ山は三角だとそう思えることが嬉しく、三角を描きたいと思う気持ちが今こうやって出てくることもまた嬉しいし、まだ描いていないけれど喜びを感じている自分がいたりするのです。それは結果というよりは発見への喜びで、例えば三角を描きたいように描いて、どういう風に描かれようがそれは大した問題ではなく、それよりも、山が三角であることを発見し、それを実際に紙に落とし込む、ただ三角を描き込むというその始まりに喜びを見出すわであります。それだから、ただ三角を描きたいと思っている。

 

 車の運転は思いの外スムーズだった。道もそんなに混んでいなかったのがよかった。それでもナビに頼るとなかなか最初は思うように進むことができず、最初の1時間くらいは目的地に向かっているようで向かっていないドライブみたいな時間だった。それもまた楽しんでくれる人がいるというのは本当にありがたく、そこで「しっかりしてよ」とかそういう言葉を投げかけられると、僕はきっと自信を失ってしまい運転する勇気がなくなってしまうのだろう。現に、運転が不安だと言われたことがあってその時、僕は運転する勇気がなくなってしまった。怖くて怖くて仕方なかったし、何をしていても失敗したように感じてしまう。そんなこともあったという話で、今はそんなに思ったりはしない。それよりもバックが前よりも上手くなった。バックのコツは左側のミラーにあり。彼はバックの立役者だ。いつの日もただ、左側の見づらい部分を写し出してくれる。何か意見を言うこともなければ、文句を言うこともない。ただ写してくれている。彼の存在に気づいたのはじゅうさんに教えてもらったからで、やっぱりクルマ好きな人に、運転が得意な人にちょっとのコツを教わるのはとても良かった。実際に、その場で教えてもらっただけで、見違えるほど安心してバックが出来るようになった。自分流もいいけれど、ちょっとのコツを教えてもらって上達するのも割と好きだ。それは物によってかもしれないけれど。それでもそういうのは自然と情報として入ってくるというか、あまりガツガツやろうとしなくても、必要なタイミングでそういう風にちょっとの視点やコツを教えてくれる人がいて、それまで自分自身でやってみたからこそ、こうすればいいのかと、すぐ腑に落ちたりするのだとも思う。運転したことないのに、運転のやり方だけ聞いてもよく分からない。実際に体験したことがあり、上手くいかなかったことがあるから、新しい視点を発見した時上達が早くなる。だから知識だけでもダメだし、やるだけでもダメでどちらも必要であり、そうやって積み重ねることが良いのではないでしょうか。

 

晩御飯

 晩ご飯は山盛りでお腹いっぱいだった。カレーハンバーグのしめじ添え、サラダ、大根とこんにゃくとちくわのようなヤツ煮物、刺身はホタテあって嬉しい、あったかそうめん、天ぷらもえびがあって嬉しい、グラタンみたいなお豆腐、多分ニジマスの塩焼き、コーヒーゼリー。漬物ときゅうりはあげた。たくさんおかずがあって、おかずに合わせてご飯の量を見極めるのはきっと野球をしていた時の癖だ。このおかずでご飯何杯いけると先を読む力をつけるのだ。「もう、そんなに無理して食べなくても良いよ」と、みーさんに言われる。確かにそうだ。もう野球をしているわけではないのだし、ほどよく食べればいい。それなのにやっぱり体に染み付いているものというのがあり、癖になっているのだろうと思う。今はたくさん食べなくても良い。あの頃はたくさん食べなくてはいけなかった。少食だった僕は体が細く、苦労していた。だけど、今はそんなに食べたら太ってしまう。今の自分の方向性にあったやり方に切り替えていくのがやっぱり大切だ。惰性で続けてしまっていることはどれだけあるだろうか。やめることも大切だ。しかし続けることもまた大切だ。何を持ち続けるかは自分が知っていなくてはいけない。だから僕は今書いているのだと思う。これは死ぬまで続けるのだろうとも思っている。ただ書き続ける。そしてこれが書き終わったら三角を描くのだと思う。大切なのは試してみたいという気持ちと、触れてみることだ。やってみること。何遍も何遍もやってみることだ。今更だけどギターでドレミファソラシドが弾けた気がした。やってみたら出来たような気がした。それは早起きして湖に行って、みーさんは絵を描いていたから、僕はギターを弾いていようと思って、触っていて、音を鳴らしていて、これはドの音かな、なんて今更やってみたわけで、それでもなんとなくわかるようになっているというか、そういう風にやっているといつの間にか出来なかったことが出来るようになっていて、1ヶ月で成果をあげるうんちゃらかんちゃらとかもいいけれど、どうせ死ぬまで続けることなのだから気長に永遠に運動を続ければ良いではないかとそう思えているのは、やっぱり時間の流れが、湖独特でその静けさが僕を安心させているのかもしれないし、海と違った、湖の装いと、何か自然の循環が集約されているような湖の環境が僕は好きなのだ。

 

 

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西湖二日目。

少し曇り空ですが、雨が降らなければ樹海にゆきたいな。