溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170729

湖 

 西湖から帰って来て、窓辺に腰掛けて外を眺めた。この家に住み始めて半年が経っていたが、どこか遠出する機会はあまりなかった。帰って来て、何か家が新鮮なものに見えた。住み慣れた家がどこかまったく新しい場所にも見えて、いつもはすぐ畳に寝っ転がってしまうが、今日はシャワーを浴びて窓辺に座布団を敷き外を眺めた。単純に暑かったからというのもあるし、窓辺は風が通るし気持ちが良いのだ。だから窓辺に腰掛けて外を眺めていた。街灯は明るく見えた。明るすぎるとも思ったが、明かりがあるから安心することもあるのかもしれない。それでも、外は静かで、穏やかだった。風は肌を触れながら通り抜けて行くし、部屋の奥までは届かなくとも、しっかり入り込んで来ていることを感じていた。その静けさはどうも湖と似たように感じ、湖はもう家の目の前にあり、そこには湖と似た静寂が訪れていて、波一つ立たないあの光景を僕は忘れることが出来ず、あの静けさこそ僕が持ち続けなくてはいけない状態だった。波立つことが多い。帰りの車でさえそうだった。道がわからなくなり焦ってしまった。ナビに八つ当たりしそうになったが、とはいえナビに頼りきっているのは自分自身の問題であり、ナビはただ指示をしているだけであり、道がわかっていればナビなどそもそも必要はないのだから、ナビに八つ当たりするのはお門違いである。それでもなんとか無事に家に帰り、そこに湖を発見したことを僕は喜んでいたし、次はもう少し道のことも前知識を入れていってもいいかもなと思ったし、それよりはその時不安になっていたのはレンタカーの返却時間と何遍も高速に乗り直してお金がかかってしまったことであり、その不安はどこから来るのかといえば、失敗してはいけないというか、なにが失敗なのかなんてすっかりわからないが、自分がいけないことをしてしまったという自分の不甲斐なさを嘆いていたというか、悲しんでいたのであり、できない自分が何よりも悲しかったのだ。そんな姿に自分自身がなりたくないのだと思っているのだろうが、それでもそういう状況というのはいつの日もやって来るもので、だから怯えてても仕方なく、そういう状況でうまく立ち回れなくなったとしても、それでも生きてていいんだと思えることがよほど大切であり、それでもその状況に立ち続けることが、何よりも大切で、怯えながらも怖がりながらも立ち続けるのだが、そもそも怯えても怖がってもいないことを知っていなくてはならず、今はまだ混沌としていて、上手く整理がついていないような気もするが、家の前にあった湖がこれからの居場所になりそうであるし、僕はいつの日も湖を持ち続けるのであるし、自ら湖を作り続けるのだとも思ったのだ。

 

樹海

 ここまでで1111字だった。たまたまそうだっただけで嬉しかった。数字は何かを示していると思う時がある。羅列である。ただの羅列。ただなんか意図が入っているような気もするが、それがとても好意的に思えるのだ。僕の子供時代はなんだったのだろうか。子供という子供を送っていないような気持ちがいつの日も襲って来るのだ。「子供は素晴らしい」みたいな声を聞くが、僕は子供時代をうまく受け入れることができていないような気がしているのだ。どこか人目を気にしていたり、恥ずかしいと思うことばかりだったのだ。それがなぜそう思わせていたのかは分からないが、そういう恥じらいみたいなものを無くさなくてはいけないと、直さなくてはいけないと思いながら生きていたことは覚えている。絵を描くことが好きだったし、プラモデルを作ることも好きだった。ゲームも好きだったし、野球も好きだった。好きなことはあったし、やりたいことを素直にやっていたと思う。ヨーヨーとかミニ四駆とかそういうのをやっていたと思う。確かに好きなことであったが、何か心のどこかで上手くいかない、何もかも上手くいかないという、そういう気持ちに駆られていたというか、何か満たされないような感覚がずっとあって、それがどうやったら満たされるのかは分からずにここまで生きて来たように思うのだ。やりたいことをやっているようでどこか抑圧しているようなそんな感覚なのだが、それは誰かにそうされたというよりは自分から望んでそうしていたように思うし、そういった厳しい環境に自ら入り込んでは、自らそういう場に馴染もうと努力していた。僕は未だに自分というものが分からない、分かろうとしなくても良いのかもしれないと思っている。わかったところで、どうせまた変わってしまうのだ。だから今の自分を知り続けることしかできないというか、あの頃の僕は本当に子供だったのかという疑問はぬぐいきれず、それを探り続けることが僕の命題のような気持ちしていて、あの時代はなんだったのかを今確かめたいと思っていて、だからこうやって書いているのだとも思っている。絵を描いているのも、ギターを弾いているのもそういうことなのかもしれない。どこか満たされなかった自分自身が一体なんなのかを突き止めようとしている。分からなくてもいいと言いながら、それでも自分自身を認めたいというか受け入れたいと思っているというか、今はもう混沌としていて、一体何を考えているのかもよく分からないが、それでも指は動いているから書いているようでもある。これは子供の僕が伝えているのだろうか。子供の僕が動かしているのかもしれない。なんのまとまりもなく、何が言いたいのかも分からない。それが今の状態であると思っているし、それで良いのだと思い込もうとしている。それは私がやろうとしていることであり、すごくご都合主義であるようにも思うのだ。ご都合主義が嫌だと思っているのかもしれず、だから抵抗から文字を書いている可能性もある。これは可能性であり、僕は一体何故なのか分からないのだ。ただ、胸のあたりでモヤモヤする状況を書こうとしているし、この感覚は樹海の中を歩いた感覚とも似ていたい。樹海は私の中に広がっていた。樹海は私に何かを警告しているようにも思えた。体がつまるような感覚があった。何か大事なことを伝えているような気がした。その感覚と近いのだ。そうだ、僕は樹海に行ったのだ。そこで、何か重要な何かを体が受け取っているような気がした。自然は気持ちが良いとか、呼吸ができるとかそういうものではなかった。まったくの真逆の状態だった。どこか胸苦しい状態が続いたのだ。僕は目を瞑ると樹海が広がり、空には富士山が見えた。富士山の頂点に太陽が重なっていた。僕はその世界を泳いでいたのだ。無重力の状態だった。僕が寝ている位置や寝ている部屋の記憶は曖昧だった。僕はただ、無重力の世界を泳いでいたのだ。それは頼りないようにも思ったが、自由であるとも思った。僕は捉われていた空間から解放されたのだ。泳いだ。樹海を、富士山を、太陽を。部屋の位置関係はすっかりなくなってしまった。枕の位置などもうないようなものだった。ぐるぐると世界は周り、ゆがんでいた。湖のようだった。時折、波立つ湖が足元で揺れていた、あの湖が空間から解放した。僕は飛んでいたのだ。泳いでいたと言った方が近いかもしれない。僕は空間を泳いだのだ。樹海の海を泳いでいた。漂っていた。

 

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樹海の感覚。

時折、胸のあたりに訪れる感覚と樹海の感覚が似ていた。

 

鎌倉は暑いね。