溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170804

名前

 昨日からもう何ヶ月が経っているのだろうか。濁流の流れが、襲い、ただ川底に突き落とされないように、何とか細い透明な糸を、濁流のなかで見つけ、しがみついた。ただその絶望的な状況を、逃れようと、もがき、抗っている、この状況をどうすれば、一体どうしたらここから立ち去ることが出来るのか。状況にまとわりつかれて、状況の点の中に閉じ込められ、線を引くことはできず、ただ点の中へと放り込まれて、視点は一点だけしかないと思い込まされて、他の視点を獲得することは困難であり、どう足掻こうとも、その点は最終地点のようなもので、これより先には進めない。枕を思いっきり叩いた。ただの罪悪感と、唸るような声だけが部屋の中で響き、何の意味もないこの時間が、数ヶ月にも思えて、昨日から数えてもう数ヶ月も経っているように思えて、こんな速度の中でどうやって普通にしていられるのかが、溝井孝司にはまったく分からない。溝井孝司は男である。女でもある。今となってはどちらでも良い。男としての振る舞いの強要にうんざりしてる。男であることにもうんざりしている。もうその男の、力で、ねじ伏せるやり方にうんざりした。縦の、上下の、考え方に、未だにそんな考えをしている男の社会に、うんざりし、それでも女性ではないが、女性への憧れのようなものを抱き、性質としては女性のような性質を持ち合わせていると思い込んでいるのが、溝井孝司であり、その名前すらも忌み嫌っているのが現状であり、名前が悪いと名前のせいにしている。生まれ育った環境や、家族どころか、名前のせいに、記号のせいにしている。この名前さえなければ、この名前でなければ、溝井孝司という人間はもっと自由に、何の不自由もなく、羽を、羽ばたかせ、こんな絶望を味わうこともなく、名前など捨てて、書くこともせず、名前など書かず、名乗ることもなく、ただ、みぞことかこちゃんとかそういうふうに何かあだ名のようなもので呼ばれている方がよほど自分らしいと感じ、そうやって作り上げられた、溝井孝司ではない、名前が自分であると思い込みたいと、そう思いたいと、名前に絶望している。溝井孝司であることは絶望でしかないのだ。この名前には絶望的な、自分の意思ではない呪縛が、そういった呪いがあるような妄想を抱き、あたかも、この名前がいけないといま批判的な態度を、この名前など葬り去ってしまえばいいと、呪いを解きたいと、そう願っているが、そんなことは真実ではなく、それでも溝井孝司は、溝井孝司という名を明かさねばならず、この名前で生きていく覚悟を持つことが出来るのか、未だに自信がないのだ。自信など必要ないのだとも思っている。それでも、それでも溝井孝司は、なんとかこの名の、謎を解明しようと、未だにそんなことをしている。この名前に捉われている。これは名称。私に名称はないのだ。そのことを言いたい。言いたがっていた。それでも、溝井くんとか孝司くんなどと呼ぶ。溝井孝司とか、みぞことかみぞいこーじとか、こちゃんなどと呼ぶ。呼ばれているから、自分だと思い込んでいる。私は、何にも当てはまらないのだ。当てはまることが出来ないから、ただ、そういうふるまいをしているだけで、私はどの記号にも当てはめることはないが、それを演じているだけであり、うちにこもる人間は溝井孝司であり、外に出ようとする人間はみぞいこーじだ。気軽なのはみぞこで、家族からはこちゃんだ。ただそれだけだ。それによって私は幾多に振る舞いを変え、その暗号ごとに答えを導き出すために必死になっている。男であるとか女であるとかそんなことはどちらでもよかった。ただ溝井孝司であることが、不満なのだ。私にこの、機械を乗りこなすことが、何度も言い聞かせる。トイレに行くのだ、トイレに行くのだと、何度も何度も動かぬ体に言い聞かせる。それが私の役目であり、役割だ。私は、溝井孝司に対して、トイレに行くのだと何度も声をかける。溝井孝司は布団の上で、ただ動こうと意思は見せるものの、動かすことは出来ないようなそんな状態を演出する。私は機械にさせる。この溝井孝司を機械として、動かすこと、気づかせること、ただの機械に過ぎないと、分からせる。

 

静寂

 これはただ、混沌した状態をかき混ぜようとしている行為で、実際書いていることになんの意味もないのだと思います。それでも、起こっていることは真実であるし、そうではなく、ただ流れて来るものを、処理しきれない、怒りのような感情を、どうにか対処できないかと必死になっている結果なのだと思います。いまは少し落ち着いているのです。いまは、この瞬間は少し穏やかな時間が流れて、ただ勢いに任せて、キーを打つということはせず、慎重に、穏やかな流れを意識しながらこうやってまた溝井孝司としてのふるまいを発見しています。これもまた僕の状態でもあり、これがいたって正常であると思い、どうも落ち着いて、何もないように、当たり前のように社会生活が送られている現状に、溝井孝司は混乱していて、どうして僕だけが取り残されたような状態で、誰にも理解されることなく、苦しまなくてはいけないのだと、絶望し、人を妬み、憎み始めていることが、実際に起こっているようで、これはただそういう風に流れてきたのであります。だから溝井孝司はいまは穏やかであるのです。これは事実であるし、溝井孝司はこうやって穏やかに、どんなものでも落ち着いて、安定した状態を望んでいたはずなのです。それが出来ないことを溝井孝司という名前の呪縛だと思い込んだわけですから、これは本当に、そう思い込むというのは自由でありながら、力があり、何をその時に選んでいるのかが、結局はその時の溝井孝司の状態に大きく左右されるので、少し時間が経てばこんなはずではなかったと、過去を悔いるわけなのです。それでも溝井孝司の感情は落ち着かず、いまは落ち着いているのですが、この苦しみから楽になるのであれば、名前を捨てたいとも本気で思っていたようですが、それもまたひとつの案として受け入れて、やって見たら良いことであるし、そうやって名前すらも殺してしまうことで、何かの安らぎを得ることが出来るなら、それは大変意味のあることではないでしょうか。名前に捉われているのです。どうか、その呪縛から解放されなさい。もう良いのです。ただの記号として捉えなさい。日本語の羅列です。解き明かしなさい。そこにあります。そこにあるのです。答えではありません。そこにあります。

 

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ちゃんとうんち出てるか要確認。

便秘してないか確認。