溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170808

記憶

 22時ごろには布団で横になるも、なかなか寝付けなかった。フワーッとなったら目が覚める。フワーッとなったら目が覚めるの繰り返し。横になって窓からちょうど月が見えていた。吸い込まれそうな月。時折、雲が明かりを遮ろうとするが、それでも月明かりの方が輝かしく、雲から溢れてしまうこともあり、それでもやっぱり雲は月を隠して、最後は雨を降らせて、風は少し止んで、雨音が建物と一緒に鳴り響き、そんな具合で、僕は寝ては覚めてを何度も繰り返し、夢を見ては、起きてを繰り返した。夢といっても出て来るのはやはりこれまで関わって来た人たちであり、中学生ではなく、小学生からの友達だったりもする。それより前は思い出すことができないのかもしれない。謎のまま。それでも、夢の中で人に出会うたびに懐かしい気持ちになるし、確かにあの時、あの街で存在していたと言うか、そこで成り立つ関係の中で必死に生きていたというか、それなりにやっていたと思うこともある。ただ、大切なのはその頃に何か大切な感情を無視してしまったと言うか、好きなのに好きと言えないとか、嫌なのに嫌と言えないとか、そういうことをうまく表現できずにいたことをひた隠していたような気がしていた。感情をうまく表に出すことが出来ないでいた。これまでも。それは当時からあったことで、どうやっても何か見えない人間の地位みたいな絶対的にそいつには敵わないと感じ、そのことに怯え、どうやって逃げるかばかりを、出来るだけ対面しないかばかりを考えていた。何か僕の弱みでも握られてしまったかのような気がしていたのだ。僕は小学校の頃好きな人がいた。そのことを、ある女の子に知られて、その女の子が僕の何もかもを握っているような気がしてならなかった。その子は僕が好きだった子とも仲が良かったし、僕と好きだった子は多分両思いであったのではないか。そこの間を取り持つように現れたもう一人の女の子。その妙な三角関係に僕は怯えてしまったのだ。現れた女の子に恐怖を覚えていた。僕の恥ずかし部分を全て握られてしまったような、秘密を知られてしまったようなそんな気がした。僕は自分の中でしまいこんでおくことが多い。割とオープンではあるが、大切なことは自分の中にしまい込んでしまう。それなのに、僕が隠していることをなぜかおおっぴらにされているような、それがすごく恐怖に感じられたことを思い出した。

 

罪悪感

 僕はなんとなく、過去に罪悪感を抱いている。過去の行いに対して、もう償うことも出来ないのに、何か罰でも背負ったように生きている。その時々に僕がしてきたことは悪だったのかと、そう考える。しかし、その行いが僕と誰かとの関係の中で生まれた罪悪感だとしたら、それはお互いが任意の上で成り立っていた可能性もある。まるで僕が一方的に全てを決めていたような言い方になるが、お互いの対話の上で成り立っていたこともあるはずだ。それは、未熟であったかもしれない、しっかりとした合意のないまま進んでしまったこともあったかもしれないが、それでも懸命に人間同士が、そうやって関わって、出した答えを進んでいたのだから、それはそれで良かったことではないだろうか。どんなに過去を憂いても、どんなに過去を嘆いても、変えることができるのは未来だけかもしれず、そんなこと何を今さら言っているのかと思う。それでも、懸命に生きて来た自身の決断や行いを否定することが、どれほど無意味か。それでもやめられず、気づけばそういう思考回路の渦に飲まれてしまう、その状況ですら意味もないと打ち消してしまうことが、どれほど、自分に対して不誠実であるか。絶望絶望といいながら、誰よりも希望を抱いているのは私自身だ。どれだけ打ちひしがれようと、誰よりも明るい未来を、健康で平和な、退屈しない、誰もが幸福である未来を、思い描いているのは私自身だった。それは他の誰でもなかったのだ。他の誰でもない、私自身の未来だ。元気に、健やかに生きることがどれほど素晴らしいことか、例えそうでない状況だったとしても、それすらも素晴らしい状況であると、そこから溢れるエネルギーがどれほど素晴らしいかを知っているのは私自身だった。

 

模倣

 僕は自分の言っていることを自分から生み出しているとは到底思わない。誰かのコピーに過ぎない。誰かの言葉を代弁しているに過ぎない。模倣をしているに過ぎない。学んでいるに過ぎない。学習しているに過ぎない。決して自分の考えではない。誰かの受け売りでしかないのだ。だが、それをあたかも自分の考えのように振る舞うことだけを、演じることを日々研究している。僕自身は大した人間ではなく、僕が学んでいる人たちが素晴らしいのだ。僕はただそれを吸収し、振る舞うことでしか、自分というものを動かすことが出来ないのだ。まるで演劇のようで、それでも構わないとそう思った。演劇なんて苦手だと思っていたが、僕がやっていくことはそういうことでとにかく勉学に励み、自分ごとのように吸収することが僕のこれからなのだ。決して自分らしくとか、自分の考えとかそんなものに流せることはないし、誰よりも自分の言っていることを信用していない可能性だってある。僕は知識で話をしているし、そうやって語りかける。知識は記憶だ。生前の記憶。声である。入り込んでくる声なのだ。僕自身はなんだっていいのだ。ただ、印象に、体に染み入った言葉を延々と語り続けるのだ。僕は体に声を集約している。そうやってあたかもそれが自分であるかのように振る舞い続けている。それで構わないのだと思った。それが、染み込んでいけばいい。誰かの言葉は私の言葉であるし、そうやって模倣が、私自身になり、そうやって演じ、それは即興ではなく、日々の鍛錬からそうやって出来るようになっていくものだからこそ、真剣に振る舞いというものを考えなくてはいけない。だから、続けるのだ。ただ、続けること。永遠の運動として、ただ呼吸し、心臓として、動かし、それは右手であり、左手のフォームであり、動きと形がそうやって訓練で、当たり前のようになっていく。それが当たり前になることが呼吸で、心臓で、今の私自身であり、そうやっていつの日も自分の無知を嘆きながらアップデートし続けることしかできないのだと思います。それが私です。それが私なのです。模倣犯。無問題。

 

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今日は満月だそうだ。

 

嘆いていても、模倣していても、それでも演じる。

演じて生きればいいやない。