溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170809

都合

 私は大変都合の良い人間で人にはああだこうだと、調子よく何もかもわかったような口を叩きます。自分のことなどろくに管理もできず、ただ感情に流されることしか出来ず、時間を守ることも、約束を守ることも出来ず、人として守るべきものを守ることが大変困難に感じられます。すごく、すごく難しいのです。当たり前のことと言われることができません。洗い物をすぐにすることが出来ません。それで木の素材の箸やスプーンが劣化していきます。そんなこと、先のことを考えることが出来れば当たり前であり、ささっと洗い拭き取れば済む話であるのですが、それをすぐに行動に移すことが出来ないのです。すぐに放置してしまいます。挨拶も心地よく出来ません。声が出てこないのです。素直に気持ちよくおはようと言うことが出来ません。目を見ることが怖いです。人の目を見て話すことが怖いのです。すぐに自分のことを考え始めます。人の話を聞かず自分のことを考え始めます。そういうことが、私をオープンにさせることを拒ませます。出来れば隠しておきたいのです。

 

土地

 コペンハーゲンのお店でチキンブリトーを食べる。飲み物はレモネード。炭酸が入っているものだと思ったが、実際はそんなことないらしい。すっきりしていて飲みやすかった。なんだかアメリカンな雰囲気で、サーフ系な様子でどこか遠い場所にでも来てしまったような気がした。僕に、この土地は自分の肌に合うと思えるような場所はあるのだろうか。どうせどこに行ったって、死にたくなるし、落ち込むのだ。しかし、なにか居場所というか帰る場所のようなそういう土地があるのかどうかが気になっている。肌に合うと言えるようなそういう場所が。根無し草なのか。どこにも根をはることが出来ずに、フラフラと生きていくのだろうか。それともどこかの大地に根を張り生きていくことが出来るのだろうか。どこか虚無感というか、抜け落ちてしまった何かを探しているような、そんな気がするのだが、そんなことより置かれた場所で咲きなさいと言われればそれまでなのかもしれない。しかし、どうしても、ここが自分が生まれた、生きて来た場所だったのかと言えるようなそんな場所が欲しいと思っているのかもしれません。

 

主犯者

 どうせ、あなたは人を見捨てるんでしょう。これまでもそうして来たし、これからもきっとそうですよ。そうやって人を傷つけておきながら、自分が傷ついているようなふりをして、あたかも自分は可哀想な人間だと装い、同情を買い、それが薄れて来たなら、また別の同情を買ってもらえるような物語を作り、そうやって永久に、わけのわからない商売を続けるのではないでしょうか。それが楽しいなら構いませんが、私からしたらいつまでそんなことをやっているのですかと言いそうになります。すみません。もうすでに言っていますが、遠慮する間柄ではないのだと思っていましたので。そうです。遠慮する間柄ではないのです。それに、例えばですけど約束通り病院にいったところで病院があなたを楽にしてくれるわけではないですからね。楽になりたいなら、あなたが何か行動を変えなくてはいけません。あなたはすぐに何かにすがろうとする。なんだって構わないのでしょうね。一体何を考えているのか。何も考えていないのですね。考えているような素ぶりを見てせているだけで、実際は何も考えていないのですね。あなたはそうやって素ぶりをするのです。何もしていないのに、何かしているような、何もしていない自分を見られてはいけないと言ったような調子で、すぐにそうやって何か偽ろうとするのです。しまいには、土地が悪いとか、人が悪いとかですからね。私は呆れて、言葉も出ません。この後に及んで、まだそんなことを言っているのかと、そう言いたいのです。その奴隷意識はもうぬぐい去ることすらできないくらいまでになってしまったのでしょう。みな主犯者をせめます。悪いのは同調したあなたですよ。思考停止した、あなた自身ですよ。主犯者はただそう言っただけです。そこに同調したあなた自身が悪いのです。悪はあなたです。そうお前が殺しているのだ。これまでの過ちを引き起こしたのはお前自身だ。お前の過ちだ。人のせいにするな、主犯者が悪いと思考停止しているやつらの言葉など耳を傾けるな。また、何か起きて主犯者が悪いと言い始めるのだ。誰が悪いと攻め始めるのだ。お前の無意識が引き起こした、争いであり、死者だと忘れるな。まだ続いている。無意識化で殺しは行われていることを忘れるな。お前が主犯者だ。お前がやった。そのことを言っている。

 

ドーナツ

 ミサキドーナツでドーナツを買って帰る。チョコカスタード。すっきりした味。上に乗っていたチョコっぽいものはチョコではないようだった。食べながらサウンドオブミュージックを観る。図書館で借りて来たもの。ミュージカルしすぎてなくてよかった。音楽が主体にある気がしたからだ。音楽が主体にないミュージカルは苦手なような気がした。なんというか、ただの自己表現のようなものを見ているのは僕にとっては苦痛なのだ。音楽が主体。これがひとつのキーワードのように思った。そうじゃないと僕はそこに存在することが出来ない。必要なのは存在できるかどうかなのだ。自分自身の生存を考えている。それは生存できるのかどうか。そこでは生存ができるのかどうか。

 晩御飯は冷やし中華。特製のふわふわたまご。どうしてもスクランブルエッグになってしまうが、仕方ない。美味しいからよしとする。あとはハムを乗せて。今日はうんちの出は良かったが溜まっている感じで心地よくない。溜め込んではいけないが、うまく出てこない状況もある。無理に出そうとしてもそれは苦痛で仕方ないもので、出てくるまで待つということも大切なのかもしれない。待つことも大事な時間だ。しかし、そこは自分の意識がどこに向いているかが重要である。意識がどこへ向いているのか。誰も楽にしてくれない。誰かは楽にしてくれる。現代社会に依存しているのは誰だ。病院が、政治が、宗教が、先生が、親が、家族が、友達が、楽にしてくれると思い込んでいるのは誰だ。否定しているのは誰だ。救われないと不平不満を述べているのは誰だ。自分で救え。自分のことくらい。自分でやれ、自分のことくらい。

 

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自分でとか個性がとか、そんなありもしないものにすがって自分を苦しめているのは自分自身だ。

 

それでも言い続けている。