溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170810

カプチーノ

 朝起きるもイライラしてしまい、八つ当たりのような接し方をみーさんにしてしまう。朝、病院に行く予定だったので、イライラする感情を脇に置いてそのまま家を出た。しかし、途中でプツンと糸が切れて「どうせ行ったところで何も救われない」と思い、引き返して行くのを辞めてしまった。仕事に行くみーさんとちょうど鉢合わせたので「ごめんなさい」と謝った。謝ろうとしたと言うよりは、ただごめんなさいと言葉が自然に出てきた。

 何もしていないのに汗が出て来るので、それにも参ってしまい、その後一旦カフェに行った。朝だったのでモーニングのセットにしてカプチーノカプチーノはほろ苦くて、今の気分にはぴったりだった。少し気持ちが落ち着いた気がした。どうしてこんなにも感情をコントロールできず、人に当たってしまったり、しまいには落ち込んでしまったり、最近は1日の中で感情の起伏が大きいように思える。そりゃこれだけ暑ければ、少し人の気分はおかしくなるんじゃないかなんて思ったりもする。おかげで、今日はやに涼しく感じる朝だ。風が冷たい。寝ていて寒かったもんだからかけていた布団の中にすっかり潜り込んだ。肌の出ている部分は冷たくて、もうすぐ秋がくるかな、なんて期待し始める。まだ8月も始まったばかりだ、なんて思ったらもう10日も経っていて、いつの間にと、夏の勢いについていけていない。

 

 珍しく、2日間連続で友人と電話で話す。電話といってもLINE通話。僕はどうも口を開き始めると、全く違った何か勢いというか、エネルギーが生じる気がする。最近は特にそうだ。基本的に人と合わない生活をしているからか、いざ、話の通じる友達となると、変にテンションが高くなる。それでも、長時間は持たないので、ちょっとの時間がちょうどよいのだと思った。そうしてまた籠るのだ。僕は一人で籠ることが怖くて仕方なかった。そんなことできないと思っていたが、案外やってみるとそんな生き方もできるもんなんだと思えてきた。今は、こういう生活を習慣化している時期なのかもしれない。うまく行くときもあるし、そうでない時もあるが、ただの実験みたいなものなのだから、気長にやれば良いのだと思った。最近は、徐々に朝方にシフトできているので良しとする。それと自分の、仕事量みたいなものを持つこと。昨日でいうと、ここでは約2,500文字、「186」という題の執筆これは約2,800文字。それと別のフリースペースのような場所に昨日は約1,000字。詩を2作、絵を絵の具で3枚、ペンで3枚。一応昨日は数字にするとこんな感じになる。もっと量を増やしたいとも思うが、どうも集中力がなく、ダラダラとした時間が続いてしまうのが気になるところ。あとはギターをしたり、織りをしたり加わってくる。こちらは数値的な目標というよりは、気が向いた瞬間に一気に取り組むといった感じかもしれない。ただ、ぼーっと考えている時間も必要である。余白のある時間。余白を恐れてしまいがちだが、そこを恐れずにぼーっとしていたい。時間持ちでありたい。多分僕は好きなことをとことんやっているのだと思う。素直に。堂々と。それは葛藤や苦痛も含めて好きということだ。それも全て当たり前のように行為として行われ続ける。そう、それで会話をする、口から音を出すことが楽しいもんでもある。相手との交わりを感じること。そうやって何か空間が立ち上がり、広がって行く感覚が好きなのだ。それでも一人で籠って生きる力をつけて生きたいと思う。僕の仕事の仕方はやっぱりこういう方があっているのだなと最近思う。

 

子供

 なぜ理不尽を感じながらも、それが当たり前だからと理不尽を飲み込んで働いたりしなくてはならないのかが分からなかった。その都度、話すもののそれが社会だからとかそれが働くってことだよとか、それが大人ってことだよとか、そういうことを言われ続けてきた。しかし、それが大人なのだったら大人にならなくても良いし、僕は何よりも僕の体で起こる反応を信じたいと思っていた。それを抑え込むことがそもそも出来なくなってしまった。知ってしまった人には知ってしまった人なりの生き方があるはずだ。なんかおかしいよねっていうその問いを押し殺してはいけない。その問いこそ使命であるし、小さい頃から持ち続けた約束みたいなものなのだとも思った。今なんでそのことを書き始めているのかはよく分からないし、ただ単に流れ込んできたから、文字を表出させているだけなのだとも思う。何よりもの喜びをやりたいことをすぐにやることだ。それをやれない状況にしてしまうことこそ具合を悪くする。詩を書きたいと思った時に、体裁を気にして、そんなことを考えてうまく書けなかったが、子供の詩を見た時、こんなに簡単な言葉で表すことが出来るのかと感動した。僕は行き詰まった時、子供の作品をよく見ている気がする。僕はいつも体裁に悩まされるから、その子供の作品を見て自由にしてもらう。僕自身では到底自由になれないから、僕は子供の力を借りてしまう。見せつけられるのだ。子供の声と動きを。それが僕の内面を動かしはじめる。子供にやらせて、それを見ないと動けない大人なんて情けないと思うが、子供たちこそ僕の先輩だと思うことすらある。恥じることなく、堂々と詩を読み、うたうその姿こそに僕の内面が動かされる。人の作品を見て窮屈にさせるならそれは僕のやりたいことではないのだと思う。作品自体でその人を動かし、内面を表出させるのだ。と言いつつ、僕はなんだか情けないといま思っている。子供に頼っている。自分では生み出すことができないから、子供に頼っている。そうやって子供子供言っている自分がどうもおかしな人間だと思える。子供も人間だ。大人も子供もないのだ。大人と言われる人間はただのこじらせた子供だ。ガチガチに育った子供なのだ。だから、子供こそ僕の先輩である、子供に教えてもらわなくては僕は生きていけなくなっているのだ。体裁ばかりが気にかかる。だからサポートしてもらうことが必要なのかもしれない。そういうものをひっくるめて僕自身なのだ。僕が一人で何もかもをやっていると思うなんておかしな考えだ。僕を取り巻く様々なものが、僕自身をそもそも生み出しているのだ。僕は特にその影響を子供たちに受けている。それがきっかけで生み出している。

 

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涼しくていいな。

これくらいがいい。

 

もう、秋に向かおう。