溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170811

コーン茶めし

 大好きだったコーン茶めし。給食に出て来ると嬉しかったコーン茶めし。今なら作れるんじゃないかコーン茶めし。きっといつでも作れたはずだったのに、ここまで長いこと作らずにきてしまったことを後悔。土鍋にお米、水、塩、醤油、酒。そしてコーンをたっぷりと。1缶まるごと、ドバッと。かなりの量。こんなに入れちゃっていいもんかと自問自答。それでも大好きなコーンだから、これくら責任持って食べれるさと思い直す。お決まりになってきた、鶏肉と大根の煮物。鶏肉と玉ねぎを鍋で軽く炒める。前日も作っていたので残りの汁を使う。少なめだったので、水、醤油、てんさい糖、みりん、酒などで味を整える。炒めるときに胡椒を加えて味のアクセントに。味噌汁は鰹節で出しを取る。最近は正確にやろうとしていないが、ひとまず鍋を温めて、そこに鰹節を入れる。それで、しばらく置いておく。これでもなんやかんやで鰹節の味は出るので、正確に全てをやろうとすると時間がかかって仕方ないが、今できる時間で美味しく作れればいい。味噌汁の具材は、しめじ、油揚げ、豆腐、最近はちょっと醤油を入れて味に奥行きを出そうと試みている。料理も慣れてきて、切り方や味付けも良いとお褒めの言葉を頂く。主夫まっしぐら。そんなこんなでもう晩御飯のことを考え始める。今日は何にしよう。そういうことを考えている日は調子がいいような気がする。今月は食事を意識する月間なので、夢中になっています。

 

うんち

 今日のうんちの出は良し。まだ出きっていない感覚はあるが、詰まっているような感覚はないので不快感はなし。匂いもきつくなかった。自分はすぐそこにいるのです。自分のことがわからないとか言ってはいけない。自分が生み出したものが、すぐそこにある。だからしっかり観察しなくてはいけない。うんちが出て来るときの体の状態とか、出てきたものの状態、匂い。そういうのが今の自分なのだから、適当に流しちゃいけない。自分のことよくわからないならうんちを見てみたらいい。今の自分が現れている。状態が、体調が。食事を改めて意識し始めただけでも、うんちの状態は良いような気がする。1度体の中を通過してきたもの。それってなかなかすごいことじゃないか。自分が見ていないところに存在して、再び体から出て来る。それがどれだけすごいことか。軽視しちゃいけない。何事も。自分には関係ないなんて思ってはいけないのだ。すべて自分が引き起こしていることを知っていなくてはいけない。それでも全てを抱えきることは出来ないのかもしれない。しかし、それでも自分が引き起こしているという、無意識の世界がそうさせているということを忘れてはいけない。だから案に自分には関係ないなんて口には出来ないはずだ。関係ないといっているあなたも、加担している。殺しに加担している。それは無意識で起こしている。そのことを無視するな。無視できない状況に来ているにも関わらずそれでも無視を続けるのはどういうことか。遊びじゃないんだ。これは遊びじゃない。

 

 こうやって書きながら、並行して詩を書くことを始めたが、今は良いやり方かもしれない。書いているリズムとはまったく違うものが生まれる。詩を書くのは、シャーペンとノートに。何か、これにはこうといった決まりごとのようなものが僕にはある。これにはこうしたいと言ったもの。日記や書き物全般はこうやってパソコン上で書きたいし、詩はノートにできるだけ書きたいと思う。B5のスケッチブックには基本的にペンで描きたいとか、絵の具だったらこれに描きたいとか、一種の偏ったこだわりのようなものがある気がする。そこから外れると、どうもしっくりとこない。それでもあえてたまにその常識を変えてみると面白いこともある。だから習慣的だが、あえて習慣的でないことを組み込んでみる。そうやって実験していくのだ。目的はとにかく多様に生み出し続けることで、同時並行でいいのだと最近はちょっと思っている。もともと一つのことに集中はできないので、ここに書きながら詩を書いたり、ネットを見たり、一周意識をそらして、また元に戻る。こうやって訓練していけばいい。自分のやり方を知っていけばいい。集中力がないとか落ち込む必要はない。手を動かして入ればいい。これはスポーツだ。運動なんだ。手にどれだけの神経があるか。太いのがあるらしい。だからこんなに手を自由に動かすことが出来るようだ。自分が思っている手の大きさと、脳みそが捉える手の大きさはだいぶ違うようだ。脳は手をかなり大きく捉えているらしい。それは神経が多く、繊細だからだ。だから手を動かすのだ。運動しなよと言われると、走ったり、散歩したり、そういうことが思い浮かんで、家から出れないときにそう言われたって辛いだけなのだ。だったら布団から出なくていいから手を動かせばいい。それだけでもだいぶ変わって来る気がする。手は重要な神経だ。脳に繋がっている。だから手を動かすのだ。

 

手紙

 最近、手紙を書き始めている。手紙のようなもの。手書きではないが、そういう気持ちを込めて書いている。今の素直な気持ちや、僕が見たその人を描いている。言葉にしている。その人の内面を言葉にしようと心がけている。それはもう、その場にはいないから出来ることだ。一人になったから出来ることなのかもしれない。組織とか、そういうとこから抜けて、社会の壁の上に立ち、世界を眺めて、どちらに飲まれることも、所属することもなく、ただ観察をし、そして感じたことを、見えたことを伝えている。ただ、それだけだ。それに伝えたいことがあるのだとも思った。こういう気持ちは初めてだったし、そう思わせてくれた人たちがいたことに感謝したいなとそう思っている。そんな自分がいた。伝えたい人には伝える。好きだと思ったら伝える、ごめんなさいと思ったら素直に言う。関わりたくないと思ったら関わらない。近寄らない。やっぱり自分の健康第一。精神衛生上良いことを。そういう研究を日々繰り返すこと。会社や組織なんていずれなくなってしまうもの、永久に残るのは何か。それはその人たちと過ごした思い出で、それを手紙にすることだった。それがこれまでずっとずっと出来ていなかったことで、ただ嘆いていただけで終わってしまって悔いたことを思い出した。初めてじゃなかったんだ。ずっと抱いていたことだった。手紙を書いて、前に進むのかもしない。そうやって進んでいくのだ。

 

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手の神経がすごい。

だから手が動かせる。

脳は手を手以上に大きく捉えている。

 

書くことは運動だ。