溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170813

日差し

 日差しが寝ている僕の足に当たり、その暑さで目覚める。足を折り曲げたり、当たらない場所に移動してみるものの、それでも日差しは入り込んでくるので仕方なく起きてトイレへ。体が疲れている。2日間連続で佐助稲荷、カフェ、銭洗弁天のコースで意外と歩いていることを思い出す。鎌倉は気づくと山登りしていることもあるので、運動にも丁度良い。体は疲れているが、精神的には落ち込んではいない。ただ、無理はしないように。様子見ながら。

 晩御飯はみーさんのカレー。玉ねぎと人参が細かく刻まれていてい、今までにないパターン。これがなかなかうまい。2種類のフライドポテトと共に。みーさんは芋の魔術師だ。芋をあらゆる姿に変えることができる。ポテトチップスになるときもあれば、煮込んで柔らかく食べるときもある。とにかく、みーさんが作る芋料理は魔法みたいに美味しくなるのだ。スープはブイヨンベースのスープ。スープでお口がさっぱりして、カレーのお供に最適。決め手は冷奴。鰹節付き。冷奴だけだと醤油は吸い込まないが、鰹節が醤油を吸い込んでくれるので、一緒に食べると味が整ってグッド。豆腐の味だけだと苦手な時があるが、この技は素晴らしかった。勉強になる。

 食後に、みーさんが動画を見ていた。パピコのCMの音程についての議論があり、その後ミスチルのLive映像からの尾崎豊で締めに荻野目洋子尾崎豊がカッコ良い。歌を歌っているだけじゃない。ステージでの振る舞い。荻野目洋子のダンシング・ヒーロー。この前みーさんが職場の人から靴を貰ってきてくれた。その靴が僕にぴったりというわけでシンデレラボーイ決定。

 うんちの調子は良し。するっと出る。しかし、昨日食べすぎたのかお腹の中に溜まってる感覚あり。

 

おしゃべり

 「すべてを言葉にするな」

 これは、みーさんが僕が置かれた状況について、的確に短くわかりやすく、僕の気持ちを言い表してくれた言葉だ。一昨日と同様に昨日も銭洗弁天近くのカフェにみーさんと一緒に行く。カフェのおばあさんからまたきてくれてありがとうと言われる。わらびもちと温かい抹茶を注文。これも300円。安い。

 「なんか、あの人マザーテレサみたいだよね」

 と、僕が言うと隣のテーブルにマザーテレサの本が置いてある。多分生まれ変わりだ。みーさんは空間とおばあさんの人柄に惹かれて、感極まりに目に涙を浮かべる。しばらくすると女性二人組が僕らの後ろの席に座る。その女性二人組がとにかくよく喋るのだ。僕は話し声が心地よいかそうでないかの違いは、声の出所の深さではないかと思っている。表面的な会話が繰り返される場合、僕はその声に酔ってしまったりする。本当に気分が落ち込んだり、イライラしてきたりしてしまうのだ。最近の対処法は音楽を聞くか、その場を立ち去る。それか、溜め込まずに声を出す。本当に咳が出るので遠慮せずに咳をしたり、ため息をついたりもする。とにかく吐き出すことに注力する。場が許すなら擬音を発する。軽く歌う。とにかく受け取ったものをその場で吐き出す。こちらのエネルギーを放出する。この辺りが効果的でよく行っている。僕は今自分の健康第一なので、人のこと構っている暇はない。自分が元気で落ち込まずにいたい。ただそれだけなのだ。そんなことを考えていると、みーさんも同じようなことを考えていたようだった。

 「すべてを言葉にするな」

 静かに、ただ一点を見つめて、かつ深いところから短くかつ的確な、気持ちのこもった言葉を僕に伝えてくれた。その一言に僕は感動し

 「それです。それが言いたかったんです」

 と、握手した。感動を全て言葉にするとそれは浮ついたものになるのだと知った。味わいがなくなってしまう。味わいのない感動に付き合わされるのはたまったもんじゃない。感動していたはずのその気持ちは口からぽろぽろとこぼれ落ちていくのだ。みーさんはこぼれ落ちると言ったが、僕からしたらボトボトと漏れている感覚であり、大変下品な行為にも思えてきた。なんでもかんでも口にするのではなく、手を動かして書いて見たら良い。言い表せないから手を動かすのだ。大切なのは深い味わいだ。感動を語ろうとしなくても良いのだ。無理に口にしなくてもいい。自分の中で味わう勇気も必要なのだ。

 

パンティ

 ブラジャーよりもパンティの方が言葉としてはエロい感じがする。「パンティ、パンティ」言いながら洗濯物を干していたら、志村けんのコントみたいだと言われる。かと言ってブラジャーは言いづらい。パンティが絶妙な音なのだ。多分「ティ」がいい感じなのだ。そこに加わる「パン」が良い。破裂音からの「ティ」が、どうも体に馴染むのだ。これはこれまで作り上げられたパンティの歴史がそう思わせるのかもしれない。パンティとはいやらしい物だ、長年培ってきた歴史の刷り込み。そうやって何年もかけて刷り込まれてきていることがきっとたくさんあるのだろう。それが常識となり、社会となり、こうやって存在しているのだ。その中で違和感を覚えることもあれば、怒りを感じたり、理解できないこともある。それを、ないものにしてはいけないのだと思う。その問いこそ、人生の問いなのだ。その反応こそが、私であり、あなただ。それが声である。だから無視してはいけないし、自分には関係ないとか決して口にしてはいけないのだと思う。無関心ではいけない。自分らしく生きたいとかそう思うなら、無関心ではいけないのだ。自分には関係ないですよと言ってしまったその時点で、死んでしまうのだ。あなたという人間が死んでしまうのだ。だから、反応を無視してはいけない。ゆるく楽しく生きましょうではいけないのだ。生きるとはドロドロしている。ゆるく楽しくではいけないのだ。そこには生命があるからだ。そんなゆるく楽しんでる場合ではないのだ。個性を見つけて楽しくランランランではないのだ。一刻も早く、目を背けた反応を見つめなければいけない。でないと、いつまでも言葉は死んだままであり、作らなくてはいけない。奴隷意識を捨てなくてはいけない。私の違和感はそうだ。個人事業というものは結局会社となんら変わらないと言うことだった。それはすなわち、国の奴隷としてのシステムからはなんら抜け出していないし、そこを抜け出てもいないのに独立は、個人で好きにやるのは素晴らしいものだと言う、浅い考えが広がって、そこに群がっているなにか、人を絶対的に崇めているそれと変わらず、歴史を繰り返しているにすぎないとそう思えており、自分でないなら作らなくてはいけないとそう思っている。パンティはそれくらい重要。

 

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今日は暑くなるのかしら。

夏が戻ってきた。