溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170817

 洗濯物をするのに難しい天気が続く。家の中に干すとどうしても半乾きの香りが漂うので、やっぱり外に干したいと思うが突然雨が降って来たりするので、雨との対話が続く。かといって、雨が嫌いというわけではなく、むしろ雨の降る雰囲気はどこか静けさがあって好きだ。傘を差して、少しうつむき気味に歩く人。嫌いではないのだ。

 晩御飯はシャケの炊き込みご飯と、豚汁。そして冷奴。炊き込みご飯はしめじではなく舞茸にしてみた。豚汁は玉ねぎと豚肉を炒めて、水を入れる。そこに、下ゆでした大根、人参、こんにゃく、泥つきごぼう。泥のついているごぼうと、付いていないごぼうがあり、付いているごぼうを選んでみた。洗い流すなら付いていないのとそんなに変わらない気がして疑問。泥がついている場合は、たわしでこすったり、包丁の裏で削ぐといいらしい。今回は、手でこするだけにしたのだが、果たしてよかったのだろうか。ごぼうはささがきにした。鉛筆をカッターで削るような感覚。なかなか楽しい。削っても削ってもごぼう。白い部分が顔を出して、ごぼうって茶色いだけじゃないんだと再認識。ごぼうは黒がかった茶色のイメージ。削れば白い。

 なんだってそうなのかもしれない。削ってみたら中身が違うことだってある。ナスも中身白っぽい。表面は濃い紫。トマトも赤いけれど、中は透明で、黄色とか緑っぽいのが混ざってたりする。人参だって、オレンジだけど中身は微妙に色が違ったりする。なんでも同じではないのであり、スタバとドトールのコーヒーはやっぱり違う味で、同じコーヒーだと言われても、やっぱりちょっと納得が出来ないわけであり、どう考えたって、まったく違うものなのだ。

 

困惑

 私は、自分自身が元気であることよりも隣にいる人達が元気であることの方が重要である。それが私にとっての死活問題だからである。隣にいる人たちが苦しそうであったり、辛そうにしていることが何よりも辛いのである。何か助けたいとさえ思う。そのために、何かを尽くそうと思うのだ。しかし、結局は自分自身が辛く、その状況に耐え難いからであり、その人の気持ちが現れることを待つことが出来ないのだ。待つことを恐れているだけであり、結局自分自身が不安なのだ。そんな風に都合よく人のことを見ているのだから、どう思われたって仕方のないことだろう。それでも、心配をしているのだ。しかし、信頼しているのであれば、待つことも必要である。その状況を変えたいとそう思ったとしても、それは状況ではなく、人自体の状態を変えたいと願っているわけであり、人が自ら這い上がって行くエネルギーがあることを忘れては行けないし、内側でうごめく、その動きが、内側で暴れているだけで、それがどんな形であるにせよ外に放出されるならそれはいたって自然で、望ましい状況だと言える。大勢でなくていい。数人でいいのだ。家族であったり、そのような人たちが不都合な思いをすることなく生きて欲しい。しかし、人には人の波がある。それは自分と違う場合もある。だからその波を無理やり変えようとしてもいけないのかもしれないし、じっと浜辺から波を眺めるように、抗うことなく、ただ観察する。私は、今困惑しているし、結局何もかもが答えなのないことだ。それを決めなくてはいけないのだ。私は、苦しい思いをしてまで、我慢してまで、行かねばならぬ場所へ行かなくては行けない意味が理解できない。しかし、それが本来やりたいことであるならば、その状況でも行くべきだと思う。ただ、行かなくては行けないといった固定観念で動けなくなっているだけで、本当はもっと活かせる場があるならばそちらへ素直に体を動かそうと、そう思ってる。無理に、苦手で嫌な場所に行く必要もないのだ。私は徹底して逃げる。嫌だと感じたらその場を立ち去る。一緒にいれないのだ。ある程度の距離をとらなくてはいけない。あなたとは。しかし、それが強制的に顔を合わせなくては行けない状況なのだとしたら、私はやはり耐えることが出来なかった。我慢が出来ない。嫌いなものは嫌いなのだ。私がどうかで良いのではないか。私はどう考えているかだ。答えが出ていなくてもいい。曖昧な中で決断をしていることが重要。誰かにそのことを委ねてはいけない。相談してはいけない。自ら考えなくてはいけない。

 

実家

 気にかかってしまうことがあると、そのことがずっと気にかかってしまう。ああでもない、こうでもないと考え始めては、止まらなくなる。ただの妄想であるが、だったら朝ごはんでも食べて気晴らししたらなんて思うが、ちょっとそんな気分でもなく、ただぼーっとパソコンの前に座っている。今日から3日ほど実家に帰らせていただく。実家といっても東京都江戸川区。そんなに都会と言える街でもないが、僕が育った場所である。その場所が僕にとっての原風景であり、そこに自然があったのかと言われると、まったく疑問である。駐車場やアスファルト。硬い地面。転べば膝から血が出てくる。野球を始めて土に出会った時、それは嬉しいことだったのかもしれない。それでも、地面がコンクリートのような場所でやっていたこともあり、そりゃユニホームもすぐに破けてしまう。家の前にあったダイエーはもともと忠実屋だった。いつからかダイエーになり、大きなマンションが向かいに建った。ビル風を感じるのは冬で、本当に寒い。僕が小さい頃にこの風はあったのだろうか。団地に住んでいたわけではなかったが、団地の中をよく駆け回っていた。団地の敷地内の中心に僕たちが山と呼んでいた小さな丘があった。そこは、土の地面だったのでそこでよく自転車を漕いで遊んでいた。どうも自然が豊かと言える環境に育ったわけでもないのに、自然がある場所へ行けば、なんて豊かなんだろと懐かしんでいるようなあの気持ちはなんなのだろうか。僕の原風景は駐車場や、アスファルトなのかもしれないが、それでも実家の前には春になると桜並木が登場する。一列に揃った桜の木が、一斉に開花する。その光景が僕にとっては美しいと感じられた。少し歩けば新川が流れていて、今は道が綺麗に舗装されている。自然が全くないわけではないのだ。消えてしまったわけじゃない。今、そこに帰って何を感じるのだろう。ひとまず、家に置いてある絵と服を鎌倉へ持って帰ってくること。

 

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僕にとっての原風景を見たいとふと思った。

東京行くの久々。