溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170818

ご飯

 朝ごはんは、残っていた炊き込みご飯と豚汁を食べる。お昼は豚汁にうどんを入れて。それでもまだ余っていたので、タッパーに移して一旦冷蔵庫へ。炊き込みご飯はおにぎりにして実家へのお土産に。バナナを食べて靴磨き。バナナの皮の白い部分が、皮の靴を磨くのに適しているらしいと知ってそれ以来もっぱら靴磨きはバナナの皮派。実際に綺麗になる。

 

目立つ

 絵を描く時に"こする"と"引っ掻く"という動作がよく現れる。衝動的な動きの中に新たな発見があり、何か学習というか、こうしたらこうなるといったものを知っていっているような感覚がある。常に新しい何かを求めているのかもしれない。とはいえ、気に入ればそれを繰り返すこともある。なんとなくだが、僕がやっていることは全て調子を整えるためにやっているようなそんな気もしてくる。こうやって書くことも、描くことも。ギターを弾いたりすることも、歌うことも、全て自分の調子のため。それは精神的な調子であり、何か、今は習慣づいてきたこの書くという動作が朝には必要で、この時間が抜け落ちてしまうことが怖いとすら思う。生きているという実感がこの中にあるのかもしれない。その日の調子とは、どんな動きが体の中にあるか。絵であればそれを素直に表すし、だからこうやってその日の状態に注目を置き、自分を目立たせてあげる行為なのかもしれない。外見ではなく、内面を目立たせるのだ。そうやって、自分の状態を目撃しながら、生きることへのパフォーマンスを上げて行くというか、どんな状態でも、調子でも、パフォーマンスが行われ、その質を上げて行くような訓練をしている。そんな気がしている。これはひとつひとつが運動である。脳に刺激を送っている。ただそれだけなのかもしれない。そうやって正常な、前向きな思考回路へと促しているのかもしれない。どちらにせよ、必要である。精神養生とでも言えるかもしれない。そのための運動である。

 

卒業アルバム

 「明るくておもしろい」

 そこに名前を連ねていたのは、僕自身である。中学校の時のアルバムを見ていた。そこにはなんとかランキングとかそういうのもあったりするのだが、そこに僕の名前があったのだ。寄せ書きには「ハイテンションが印象的」とかそういうことが書かれていて、一体どんなテンションだったのかと今は思い出せずに、自分は何をしでかしていたのかと恐怖を覚える。それにも関わらず、高校時代のアルバムの表情は終始曇っていた。自分を押さえつけた3年間の集約が、無理やり笑顔を作ろうとする自分であり、無理やりピースサインを作る自分だった。一体どうしてこんなにも変わってしまったのかと思うが、その環境に身を置くことを選んだのは自分自身だった。僕は何か一つのことだけに取り組むというのは体質的に合わないらしい。様々なことが同時に行われていないと行けない。中学生の時は学校生活、放課後の自由な時間、週末の野球といったようにある意味で分裂していたのだと思った。高校になると、学校生活といえど、全てが野球になり、それがストレスになってしまったということもある。学校生活と放課後、週末は全てひとつになってしまった。それが僕の逃げ場を無くしたし、精神的にも追い詰められていったのかもしれないと今となっては思う。それをよく耐えたと賞賛されるより、他の道であったり、自分が明るくておもしろく存在できる環境を模索することもきっとできたのだと今となっては思う。当時の自分にはそんなこと考える余地もなかったし、これをいかに卒業まで耐え抜くかしか考えていなかった。それでも、いまはようやくあの頃の感覚を、自由に好きなことをただ永遠と自分の時間として取り組んでいた、中学生の頃のような感覚を思い出していて、ただ僕は中学生の頃の気持ちを何より大切にしながら生きているだけなのではないかと思った。大切なのは自主的に生み出されることだ。決して強制からではない、内面にある衝動のような、その動きが自主的に生み出され続けることなのだ。それが中学生の頃は自然と出来ていたように思った。あの、心地よい感覚を、好きなことを何かに縛られることなく延々と続けてしまったような感覚を、日が暮れても友達と小さなボールひとつを全力で追いかけていた感覚を、ただそのまま形を変えて継続しているだけなのだと思った。

 多分、本当にこじらてしまっているのはいつの日も大人と言われる人なのだと僕は思う。地位とか肩書きとか、年齢とかそういう秩序に飲まれ、それが正しいと、何か武器でも持ったかのように暴れ始める。満せ。まずは自分を。湧き水であることを忘れるな。内側から溢れる、過剰供給とも思えるような湧き水をまず自らが溢れさせなくてはいけない。僕はどうも大人になると面倒だと思うことが増えてしまった。それは人間の面倒くささ。僕はただ、あの頃のように好きなことは当たり前にやり、そのことに夢中になりたいとそう思っている。そういうパフォーマンスであり、演劇をしてるのかもしれない。だから、書いているし、描いてる。それは放課後だ。放課後の何かまったく現実とは別のあの空間を作っている。あの時間を引き延ばしている。それが出来ること。空間を立ち上げることが出来る。

 

実家

 久しぶりの実家は少し埃っぽくて、東京は人が多く、いつものように僕の家の中には目の前を通過して行く電車が通り過ぎる音。排気ガスのような匂いが充満しているというか、それでも僕はここで育ち、それを懐かしむようなそんな気持ちが出てくる。今、帰ってきたタイミングで何かを思い出そうとしているというか、多分中学生くらいの頃のあの自由で、なんでも出来ると思っていた、何をやっても楽しいと思えていたあの感覚を、もう一度何か感じたいと思っているのかもしれない。明るくて、おもしろくて、ハイテンションだった恐ろしい自分を確かめたいのかもしれない。というより、その言葉が僕を躁鬱と決定づける言葉になっていることは言うまでもなく、ちょっと笑ってしまったのだ。ハイテンションと見られていても、内面はかなり落ち込んでいることが多かった印象があるからだ。当時から、そんな感じだったのだから、そのまま大きくなっているということになる。そういう性質は活かせばいい。ここ最近は調子が良く、内面に意識が向かうよりは外へ外へと向いていて、正直書くことであったりに、あまり集中していない。それでも思考はあっちこっち自由にさせながらも、創作意欲だらけの自分を多少統率しつつパソコンに向かっている。

 

f:id:mizokoji:20170818082930j:plain

意識が外へ外へと向かっていて、気が散っているような気がする。

それでも創作意欲はやたらとあるので、そんな中に身を置いてただやる。

 

今日は夕方みーさんとバッティングセンターに行く予定。