溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170826

盆踊り

 北鎌倉円覚寺の盆踊り大会へ。雪洞でライトアップされていて、人もごった返しているわけでもなく居心地がよかった。暑かったけれど。みーさんがうちわを買う。500円の竹でできたうちわ。最近うちわの話題が出ていたらしく欲しかったそうだ。うちわを買うと抽選会に参加できる。みーさんがガラガラを回す。青い玉が出て来る。北鎌倉で使える500円の商品券が当たる。500円でうちわを買って、500円の商品券をもらう。この人のくじ運というか、引き寄せ力が末恐ろしくなる。帰りの電車の中でそのことについてしれっと語っていたのだがイメージが重要らしい。想像を膨らませるそうだ。だから、「何色が当たりなのか聞いておけばよかったな」なんて嬉しそうに言っていた。みーさんは素直なのだと思った。発想が想像が自由だ。縛られていない。そういう空間を持っているのだと実感する。盆踊り大会は太鼓の演奏が行われていたが、それが終わると一斉に人が輪になる。心は360度。初めて聞くがやってみる。盆踊りの楽しさに気付き始める夏。ドラえもん音頭を聞くと懐かしい気持ちが蘇る。実家の近くの公園の夏祭りではこの曲が毎年かかっていたのを思い出した。子供時代にタイムスリップするようなそんな感覚。子供の頃は踊ったりはしなかったが、今は踊りたいとそんな風に思えた。円覚寺の敷地を解放して行われていたので、一つの仏閣が外から眺めることが出来るようになっていた。すっかり円覚寺を気に入っていた。あまりお寺には行かないが円覚寺は良い場所だなって思えて好きになった。

 

イライラ

 すっかり夏バテしたのかイライラし始める。外に出ればすぐに汗が噴き出して来るし、建物に逃げ込んでも冷房が寒すぎて体が順応しなくなって来る。夕方くらいに家に帰り横になる。気持ちが落ちそうな予感がしたがお腹が冷えていたので手をお腹に当てて温める。そのまま少し眠る。盆踊りに向かうために7時過ぎに起きたが、暑さで頭がぼんやりするのとイライラするのは消えていなかった。それでも家を出たが途中で引き返してきてしまった。すぐ横になり保冷剤で冷やす。そして目を瞑る。段々とイライラした気持ちも治り始めるが、どちらかというと夏に八つ当たりをしたいと思い始める。夏さんに申し訳ないと思いながらも少しだけ暴言を吐きながら改めて家を出た。みーさんは僕が行ける状態になったことを素直に喜んでくれたように見えた。落ちそうになっても落ちすぎない感覚がなんとなく分かってきたような気もした。その都度対処出来るようになってきたというか、あまり飲み込まれすぎにいれるようになったのかもしれない。今は調子がすこぶる良いという訳でもなく、ちょっと低いところで静かに墜落することはなく飛び続けているような感覚。無理に上昇しようとすることもないし、低空飛行が悪いわけでもない。これが僕自身なのだから上がる時は上がっていいし、下がる時は下がっていい。ただ最近は墜落しなくなってきたのは何らかの収穫のような気がする。無理に合わせたりそういうことをしなくても良い環境であるからかもしれない。あくまでも自分のペースを保ち作れていることもある。今はそこに集中してみたい。自分のペースを保ち作り続けること。作るとは空間であると思う。自分の中でただ静かに外の影響を受けることのない独自の空間。自分自身を表出させ続ける。そういうことを淡々と自分自身が作っている感覚を持ちながら。今はそれが出来る状況なのだから徹底してやってみる。

 

風が強く吹いている

 三浦しをんさんの風が強く吹いているを読んでいる。これはみーさんが僕に勧めてくれた小説だ。僕は何でもそうなのだが割と誰かがオススメしてくれて、それを吸収していくことが多い。自分の知らない世界に触れる機会のようなもの。本であればこれ読んでみてとか、音楽であればこれ聞いてみてとかそうやって人伝いで作品が僕の元にやってくる。もちろんそこでの合う合わないみたいなものもあるが触れるということが重要で、それがその人を形成している一部になっていると思うと中々面白いのだ。結局は人に興味があるし、何かその人の持っている能力を活かしたいとすら思ったりする。そのきっかけになるような場を作りたいとだって思う。会社とはまた違った関わり方である。会社という秩序の中でできる限りの力を出そうという感覚よりは、人としての力を発揮できるような場なのかもしれない。それは居場所にもなりうるし、そういう空間を誰しもが持ち合わせていることを伝えたいのかもしれない。放課後のような時間。好きなことに没頭する。得意なことに没頭する。決められた時間割をこなすのではなく、自分で作った時間を過ごす。そういう時間があったことを思い出すためのひとつの手法が芸術なのだと思うのだ。僕はそのことをずっと考えていて、やっていることは小学生の頃とか中学生の頃と何も変わらないのだとも思う。ただ自分が熱中できるものだけにとことん時間を費やすのだ。とはいえ学校社会や会社と言われる組織の中で過ごす時間が無意味かと言われると決してそうは思わない。そこから学ぶこともあるのだろうが、僕の場合はそういう決まり切った建前の世界で過ごすことに少し限界を感じてしまったらしい。偉い人が来たらいつも以上に挨拶をする、媚びる。お金を持っている人にはこちらからヘコヘコと頭を下げる。そういう社会の根本的な何かを否定したい。多分資本主義の構造自体なのかもしれない。日本の中で培われて来た上下関係や親子、家族の関係性なのかもしれない。僕は高校まで野球部であったからか、もうそういう関係がうんざりしていた。それに何もかもを犠牲にして結果だけで自分自身を図られることにもうんざりしてしまったのかもしれない。風が強く吹いているではそういう部活動内での、ひとつの社会への疑問のような部分が描かれている。何か個性を発揮できる場や、そんな会社があればいいと僕は願っていた。しかし、それは会社や国に頼るようなものではなく個性を発揮するのも才能を発揮するのもその人自身だったということがそもそもの話なのだと思った。組織に属していながら個性を発揮できる職場とかそんなことを言っていては元も子もないのだと思った。本当に個人を表出させ活かすならば、一人で自分を生かし続けるしかないのだとも思う。他人任せだった自分を恥じながらも僕は個性を発揮できる場や、会社のようなものを一人になりながら追い求めているのだと思った。

 

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今日は静かな時間を過ごそうと思う。