溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170827

見渡す

 1日をゆっくり過ごすことを意識してみる。あれもこれもとやろうとするのではなく落ち着いて過ごす。その時にやりたいと思ったこと、自分の行動に罪悪感を感じる必要はなし。赴くままに過ごすのもまたよし。途中まで読んでいた、三浦しをんさんの風が強く吹いているを読了。5,6時間くらいで一気読みした。少し絵を描きたくなったのでA4の用紙にミツロウクレヨンで描く。夏子に教えてもらったパンとスープと猫日和を観る。映像の中では穏やかな時間が流れている。僕にとってはあるはずだがどうしても流れていってしまうような光景で、ふと立ち止まることのできる感覚がある。僕がいつも忘れてしまう大切な感覚である。それでも、もっと激しく興奮したいとそういうものを望んでいる自分もいる。物足りないと感じる自分もいるのだ。ただ、穏やかさというのを僕はいつも忘れてしまう。穏やかにいることを忘れたくないと思いながら、せわしない方へと向かってしまう。そんな矛盾した状態を自ら作り出している。どちらか一方にしたいわけでもない。ただ様々な状態を内在させ続けることしかできない。何か一方をなかったことにするのはどうも出来るはずがないのだと思っている。あったことをなかったことになんて出来ないし、融通を利かせることが出来ない。それなのに言ったことはすぐに忘れる。それでも良いと思っている。それが自然な状態ではないかと考える。自然とは何か。自然な反応とか自然な状態とか。それは様々であり、決して統一することは出来ない。自分と相手が違かろうと大した問題ではない。言ったことに対して内省し居場所をなくしていくのはいつも自分自身だ。何が正しいか、間違っているか、そんなことばかり気にしてひとつの発言をいつまでも妄想の中で巡らせる。何も正しくないし、間違っていない。それでも言い続けることしか出来ない。答えのない状況を怯えてはいけない。内面を表出させ続けることでしか対話は生まれない。いくら全体にとって、体裁のいいことだけを述べていてもそれでは個人は表出してこない。誰がやるかなのだ。あなたがやりなさい。私自身だ。正解や答えばかり求めてどうするのか。失敗しないように意識を張り巡らせてそんなことに注力して一体何をやっているのか。そんなことよりもやることがあるはずなのだ。人のことはいい。まずは自分がやりなさい。誰かに期待せず誰よりも自分に期待しなさい。そして誰よりも他人に期待しなさい。自分も他人も期待しなさい。どちらも私でありあなたであるから。自分と他人以外の人格に気づきなさい。その人格と繋がりなさい。あなた自身であるし、私自身でも、自分自身でもある。もうその場から抜け出しなさい。視点の事を言っています。視線といっても良いかもしれません。役職や立場の話ではありません。環境でもありません。内側に潜り込みなさい。それはすなわち見渡す事です。内側とは見渡す事であるのです。

 

休暇

 日差しは雲で隠れていて風も時折部屋の中を通り抜けていく。その風が穏やかで太陽にも休日があるのかと思うと大変ありがたいなんて思う。ここ数日間はさすがに暑さにやられて家の中にいても汗だくだった。扇風機(通称:めがねちゃん)をフル稼働させ、とにかくめがねちゃんの近くから動けなかった。太陽が休日ということはめがねちゃんにとっても久しぶりの休暇が訪れたということでここまでの連勤続きで溜まった疲れを癒す時間に当てている。とはいえめがねちゃんは表情一つ崩さず、首をどんなに振ったとしてもその笑顔は変わらないのです。日中はとにかく暑いのだが寝るときは冷えると感じることも多い。寒いとまではいかないがタオルケットは必須と言ったところ。朝起きて体を触ると冷たいと感じることもあり、最近は体をさすったり伸ばしたりしながらゆっくり目を覚ますことが多い。時々、腹筋がそこに盛り込まれたりもするのだがどうも腰が痛かったりもする。あったはずの筋力はもう数年前にどこかに落としてきたようで、腹筋を10回もやると悲鳴をあげそうになってくる。目的は健康維持のためでありムキムキになりたいわけでは決してないので徐々に続けていけば良いかなんて思ったりもする。大切なことは辞めないこと。辞めた瞬間に全ては終わってしまうのだ。数ヶ月、数週間で成果を出すとか、何かの賞を受賞するとか、優勝するためにとか、そういうことだけが目的ではなくても良いのだと最近改めて思う。高校球児は甲子園を目指して、その上を目指して当たり前みたいなそんなことばかりではないのだ。いろんな人がいていいのだ。僕は中学生の時の卒業文集に「大人になっても野球を続けていたい」と書いていた。その事をよく考えるのだ。あの頃どんな気持ちで書いていたのか。きっとただ野球が好きだから続けていたいとそう思っていたのだ。だけど、野球は9人でやるものでチームスポーツで上下関係が厳しくてとかそういうの諸々が僕は嫌だったのだ。チームの中で結果や数字に追われることがもう限界だったのだ。チームでありながらライバルであるその状況で足を引っ張りある状況が肌に合わなかった。だから高校で野球を辞めたのだ。ここからまた納得のいかない上限関係や結果や数字ばかりに捉われ、人の揚げ足をとるような人たちばかりと共にいたくないと思った。だから野球ではない環境に身を置こうと思った。やっていればわかる。自分がプロになれるかどうかなんて。僕にはそんな実力もなかったし才能もなかった。ただ野球が好きということはいまでも変わらなかった。そこを取り巻く規律や組織は嫌いだが、野球自体スポーツ自体はやはり好きだと今でも思えるようになった。どんな形であれ中学生の僕との野球を続けていたいという約束は破ることは出来なそうなのだ。

 

強さ

 僕は答えがなく、自分自身が永遠と生み出し続けることが出来るものを探していたのかもしれない。それが芸術といわれるものなのだとも思った。とにかく自分の内面の深い場所へ、その先にあるまだ見たこともない場所へ行きたかったのだ。それに誰かと一緒にやるものでもない。その瞬間は一人なのだ。そのことに怯えながらもでもそこに辿り着きたいと思っていた。それよりも先に行きたいと思っていた。それはどこか長距離を走る選手たちと似ているのかもしれないとさえ思えた。こうやって書くことも、描くこともスポーツとあまり変わらない。ただ一人になって続けていくしかないのだ。僕はその苦しみから逃げ出した。だけどいまは全く違う形で戻ってきていることに気がついた。今はある意味で一人ではないし結果や数字だけではない強さのようなものが僕にもついてきたのではないかなんて思うのだ。

 

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涼しいなんて思ったらちょっと日が出てきた。

それでも風はありますよ。