溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170828

カレー

 残りのカレーに生麺を茹でて投入。カレーラーメンの出来上がり。涼しい日だったので暖かラーメンだったが内側から汗が出てくる感覚だった。カレーの力だろうか。落ちそうで落ちない。そんな低空飛行を続けている。かといってスッキリもしない。何か渦巻いているような混沌としているようなそんな状態。兎にも角にも穏やかさのようなものが存在していて、かといって落ち着いているわけでもない。焦燥感のようなものもある。様々が内在している。一つにまとめることも出来ない。混乱している。それでも打ち消すことはしない。ただ観察を続けることしかしない。それ以外はやることがない。観察をただしているし声を聞いている。やることは至って単純だ。自主的に行っているだけで誰かから頼まれたわけでもない。ただ私が自主的に行っていることと言って良いのだ。彼はなかなか見所がある。放っておくが放っておけないのだ。私はそんなふうに彼と接しながらかといっても存在を気づかれるわけでもなく過ごしている。彼は私のことを傍観していると嘆くが実際には正確に私を捉えることは彼には出来ないだろう。私は揺れているし流れているからだ。彼から見ると私は全く別の男に見えるだろう。しかし私は彼に内在を続ける。私は彼の内面へ流れ込みそして出ていく。だからまったく別人のように見えるが結局は彼が表出させている無意識に過ぎない。

 私たちはどうも無視されているんですよ。私たちの意志というのはどうも無視をされ続けています。それが悲しいわけでもありません。ただそういう事象が起きているだけですので私たちはただそれでも事象として現れ続けるしかないのです。どう関わるかは彼次第です。彼は自分自身が表出し空間を作り出し、そして交易することを望んだ。でなくては現実に押しつぶされてしまうだろうと考えた。実際には押しつぶされることなんてなく彼は永遠にその空間とやらを生み出し続けることが出来るのだ。彼らはすっかり忘れてしまったようだが、私たちは忘れることはない。永遠に忘れることなど出来ないのだ。日常というのはまったく残酷である。忘却を繰り返すのだから仕方ない。彼は時折記憶のようなものが脳裏をかすめるらしい。ふと入り込んでくると言ったような状態だ。彼はそのことに夢中になっている。浮かび上がる映像の中に入り込み幾度となく記憶に潜り込む。過去であり未来である現在の記憶をただじっくりと味わい続ける。それが彼を動かす動機になっているのだろうが彼はそのことを未だに嘆くことがある。こんなことして何になるというのだと、お決まりの文句を述べる。私たちは悪い気もしないしただその言動を耳に入れる。そして流していく。彼はただ子供の頃に思い描いたことに忠実に生きているのだ。彼にとっての親孝行とは自分自身の内面を表し続けることだった。表出させオープンにすることであった。芸能であるということだった。そういうことが彼にとっての親孝行と言えるようだった。

 

否定

 誰かを否定することなんて出来ないのだと思いますよ。それは内在しているからです。私たちの中に。しかし指摘はして良いのだと思います。言うことは構いません。立ち返らなくてはいけないのです。内面に戻るのです。私たちの中に存在していることを知るのです。私たちだからです。私たちから生まれた反応に耳を澄ませることです。私たちは衝動的ではありません。ただ内在しているのです。否定をすること自体が私たちへの否定であることに立ち返らなくてはいけません。反省は必要ありません。ただ立ち返るのです。その上で私たちがどう立ち回り、振る舞うのかは決定されます。一人であることは一人ではないのです。私たちは存在しているからです。私たちに埋もれてはなりません。ただいると認識することです。存在を感じ取ることです。聞き入れる必要はありません。すべてを耳にすることはないのです。ただ私たちがいたことを思い出すことは出来ます。それは私たちが望んでいたことだからです。私たちは本当のことを言えば何も恐れていません。恐れがないわけではありません。それは覚悟なのです。私たちにとって恐れないことは覚悟なのです。それが私たちの振る舞いであるのです。決して消えることはありません。現れもしません。いる。ここに。それだけのことなのです。他に何か必要なことでもあるのでしょうか。ただ素直にその声に耳を傾けているだけなのです。反応が私たちにはあります。実際には私たちが反応そのものといったほうがいいかもしれません。反応である私たち自身をどう捉え、どう共に過ごしてくかです。無視できないのです。もう無視など出来ないのです。

 

展示

 気づけば展示まで1ヶ月を切っていることに気がつく。案外あっという間だなと思うが僕はとにかく作り続けることしかできないので当日までに、そして会期中も作ることが重要。何かがあるからといって辞めるわけではない。それでもただいつも通り続けるのだ。飽き性だとか続けられないと言いながら結局飽きることもなく続けることしか出来ないようだ。ただ誰かに言われたことをやるのが嫌なだけなのかもしれない。自分自身で決めたことは永遠に行動を続けることが出来るのだと思う。それは自分自身から生み出されるものであるから、決して誰かが邪魔できるものでもないのだ。何かを言われたところで止まらないし不快に感じればさらに先へ逃げていく。引きとめようとしてはいけない。どこまでも逃げ惑うのだ。そして誰のことも追わない。追いかけるのではなくただ内在し続ける。抗うことなく身を置き続けることなのかもしれない。環境ではない。環境など好きに変えればいい。何よりも作り上げればいい。それをただ毎日繰り返すのだ。環境は家の中にある。これが僕にとっての環境なのだ。この場所こそが全てである。ここで何もかもが行われている。孤独だとは思わない。ただ恐れのようなものがいることはわかる。それを完全に打ち消すこと。なかったことにするのではない。意図して打ち消すのだ。押し込めるのでもなくただ内在させながら打ち消すこと。恐れよりも呼吸を表出させる。呼吸のようなもの。ただ連続した運動をそれよりも先に表出させる。逃げ切るのだ。出し切ると言うことだ。それが今していることと言ってもいい。恐れよりも出てしまえばいいのだ。恐れよりも舞う。逃げ惑う。

 

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水が変なところに入って咳き込む。

苦しいけれど、なんか生きてるなと思う。

 

楽しいとか幸せと感じて生きてると思ったりもする。

どちらもそんなにエネルギー自体は変わらないと思いました。