溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170901

調子

 少し穏やかな感覚が体の中にある。それでも何か静かに蠢いているような感覚がしばらく続いている。あまり騒がしい場所には行かず静かな状態を保ちたい。それは精神的にもそうである。出来るだけ穏やかな状態を保っていたいと思いながらそれが叶わずに落ち込むことは無意味なのかもしれない。影響は受けるものだが影響を気づけば受けすぎているのだとも思う。ここ数日間1日の中でドンと落ち込む傾向がある。低空飛行の状態が続いている。調子が良いとは言えないがそれでも保ちつつ、落ちつつを繰り返しているような気もする。連絡をくれている人に連絡を返さなくてはと思いつつ気が進まない。連絡をしようと思っている人もいるがどうも踏みとどまる。なぜか億劫というか一人になりたいと思ってしまう。そのくせ誰にも理解されていないとか嘆き出す。自分が他者を理解しようとしていないことが始まりで閉ざしているのは僕自身の行いである。それなのに被害者ヅラし始める。僕はとことんそのことに対して否定を始める。調子が悪いと言えばそれまでだ。精神的に落ち込んでいる日が続いていると簡単に言えてしまえば良いのかもしれない。それなのにそんな簡単な言葉だけで片付けたくないという気持ちがあるのかもしれない。そんな単純な話ではないと言いたいのかもしれない。とはいえ簡単に言えばそんなもので片付いてしまう。私は気分が落ち込んでいます。鬱に入っています。それだけでいいのかもしれない。それは思考をしたいといっているのかもしれない。考えたいのだろう。だから止めることもない。ただ人に伝える分にはそれくらいでいいのかもしれない。細かいことをごちゃごちゃと言っても伝わらないのだろう。そうだもともと伝わらないのだ。わかったような顔をされるのも嫌だとすら思っている。簡単に言えれば楽なのだろうか。わざわざ言う必要もないのかもしれない。何がどうしてこんなに落ち込んでいるのかの原因なんて誰も興味がないし、僕が落ち込んでいようがいまいがきっとどっちだっていい。それでも世界は、社会は回っていくのだ。僕は社会に必要な人間でもなければ価値のある人間でもない。それでも僕は一人になる空間の中では社会とかそんなものの価値なんて気にすることなくただ絵を描いている。これは小学4年生の僕自身との対話である。どうしてもこの時のイメージが体に染みついている。別に悪いものじゃない。ただ僕が自分自身で作り上げた虚像がいる。それが自分と思い込もうとでもしているように。女性的になりたいと思ったのはそれくらいの時からだ。中性的に。そういう感覚がその頃からあったのだ。可愛い絵を描けば、可愛い振る舞いをしていれば、可愛がってもらえるし喜ばれたしそれが嬉しかった。しかし今その先を行かなくてはいけないと感じている。覆われたその小学4年生の僕が作り上げた膜を破ると言うよりは、そのままにして外に出ていけば良い。それは消す気もないし人格である。ひとつの人格に過ぎない。一人と言いながら何人もの人格と住み生活をともにする。その一人と今対話を繰り返す。だから絵なのかもしれない。僕は小学4年生の頃に絵を通して人とコミュニケーションをとることを覚えた。当時好きだった女の子と仲良くなるための手段だったのかもしれない。しかしもう誰かのために絵がなくてもよくなった。僕は還元し始めた。元ある状態に。そのままの衝動を紙に載せる。それは荒々しいものではなくとても男性的であるように思えた。理性的な美しさがある。かと言って計算されているようなものでもない。どこか荒々しいが繊細な男性的な側面を僕は小学4年の時に隠し始めた。いまその膜の外へ出て、男性的なというよりはより僕の内側にあるそのままの状態の衝動のようなものその美しさに目を向けているようなそんな感覚がある。触れることが出来そうで中々触れることが出来なかったその感覚にいま触れ始めているようなそんな気がする。それが何になるのだろうか。そんなことをしても無意味だと言われても仕方ないのかもしれないが、これは救済のような医療のようなものなのだ。自分自身を医療の対象として独自の医療を生み出している。時に死にたくなってしまう自分の弱さを受け入れながらそれでも生きる道を選び続けようとしている。僕は結局死ねないのだ。死ぬ勇気もない。口で言って何かを吐き出そうとしているだけだ。それでも息を止めたり、首を締めたりする。苦しくて結局そのまま布団の上でうっぷしてただうなだれている。それでも生きる術を自ら作り出すことしかできないのだと思う。心理学をやっているだけの人を信用しませんと言うようなことを私は言った。信用してないわけではない。心理学のことだけで語られても理解されているようには到底思えないのだ。対話がその時点で成り立たない。それならば深いところでピアノを弾いている演奏者のその音色を聴きたい。僕はそれを試みてる。外に向かわない。無理やり誰かを巻きこもうともしない。僕自身がどれだけ深く海底の中で一人になりそこで矢面に立つことができるかだ。その訓練を今しているのかもしれないと考える。表面的な仲良しごっこに飽き飽きしてしまったのだ。みんな同じ気持ちだよねとか、みんな同じ方向を向いて頑張ろうねとかそう言うふうに括られるのが嫌だったのだ。かといって一人になる勇気もなかったのだ。でも今は確かに少し確信としてその勇気が持つことが出来ているのだと思う。恐怖は消えるのだろうか。わからない。それも結局数なのかもしれない。僕は一人で語りかけたい。歌いたいのだ。その恐怖を乗り越えたいと、消し去りたいとそう思っている。深いところで響かせるしかない。そうやって人と人がつながり合うことが対話なのだと。言語に捉われてはいけない。それでも徹底して書き続けなくてはいけない。そうでないと人を救うことなど出来ないとそう思っている自分がいるのだ。誰かを救う気なんてない。自分で力強く生きることができる。それでもどうしても危険な状態になったときに共感し合える力が僕は欲しい。緊急事態以外では僕は使い物にならない。緊迫した状態で適当に語り合える。聞く耳が必要だ。そう言いながら僕は自分の治療に専念する。それがもっとも効果的な治療法。

 

 

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9月。

セミが少し弱々しい。