溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170902

文字

 文字が浮かび上がりここになにか内面を付着させ浮かび上がらせる作業をしているのではないだろうか。その文字を追うたびに何かもうまったく違う空間へと足を踏み入れるようなそんな感覚がある。それでも何かが蠢き続けていていそれは混沌としているようである。人間一人の体の中ではどうも収まり切らないほどの何か広く大きいそれでいて細かい粒子。気分を切り替えるのが難しい状態になっている。泥濘に足を踏み入れてしまったような状態が続き、そこから足を踏み出すことはできずただ体は泥濘の中へと沈んでいく。もがけばもがくほど泥濘は私を飲み込もうとする。躍起になっているわけではない。ただ役割として淡々と仕事を遂行するのみであり感情なんてものは持ち合わせていないようだった。それなのに私は感情の対処が出来ずにいる。これが感情と言って良いのかもわからない。ただ苦しい状態が続く。ただ苦しいのだ。明確な理由を探そうとするが、その行為を遂行すればするほどどつぼに嵌まり後戻りなど出来なくなってしまう。理由なんて無いのだ。単に苦しいだけだ。そのことを死にたいと言語は言う。ただそれだけのことだ。ただ言葉がそれしか持ち合わせていない。だからもう少し細かい言葉を探そうとする。これは一つの作業と言っても良い。治療である。書いているのではなくただの治療なのだ。ただ何か言葉を当てがおうとしているだけなのかもしれない。正確な言葉は存在するのだろうか。はみ出ながらも、多少不足していてもなんとか補おうとする。足りない部分は描くなり歌うなりして補うのだろう。カッコのいいものではない。ただ苦しさから逃げ出すためにやっているのだ。この言葉も果たしていま的を得た言葉なのか。私はどうも納得していない。私は納得させるために書き続けるしか無いのかもしれない。でなければこの苦しみはいつまでも続くのだろう。止めることは出来ないのだ。止まることも出来ない。ただ逃げているようで案外そうでも無いのかもしれない。曖昧さの中で存在し続けるしか無い。決めつける方が楽なのだろうか。ただ自分が決めることを恐れているだけでは無いのだろうか。明確に決めつけることが私たちを傷つけると考えているのだろうか。私たちの声全てを拾い上げることは出来ない。時に強行採決を下し、人々の声を無視し進まなくてはいけないこともあるのだろうか。私たちは固唾を飲んでその決断を見守っている。ただ見守っているのだ。悲しさや怒りは入れ替わる。時に落ち着くこともある。それも長くは続かない。入れ替わりが激しい。落ち着いた瞬間にもう次の私たちはやってくるのだ。そのペースについていくことが出来ない。だからただ眺めて観察するしか無いのだ。調和を求めている。オーケストラ。俺はオケを鳴らしている。指揮者だ。しかし指示はしない。ただ調和を求めてそれだけを追求する。何も言わない。ただじっと待っているのだ。俺はそうやってこれまでもやってきた。押させることはしなかった。押させえ付けることなど出来ないのだ。ただ私たちの鳴らす音に耳を傾ける。時には不協和音が鳴り響くこの世界を私はじっと耐える。眺める。観察する。ただ意識は持つ。私の意志は持ち続けるのだ。気づくことを信じている。そして気づいた。その繰り返しなのだ。俺はその意志となるだけだ。ただ指揮棒を振っている。調和が起こる。私たちが統合されることはない。分裂したままただ調和が起こる。だから私は変えようとしない。私たちひとりひとりを変えようとは試みない。そのままの状態で存在させる。私たちもそのことはわかっている。自立してどうすれば調和を取れるのかを考えることができる。俺はその状態を信頼している。子供のようだが子供ではない。しっかりと自立した考えを持っているのが私たちだ。好き勝手にやればいいというがそれは自立した人間が言える話でその覚悟がない人が好き勝手にやるのはただ場を乱すだけの行為であり調和は生まれない。私たちが自立していることが前提なのだ。そのうえで悲しみが怒りが入れ替わろうと俺は構わないしただじっと観察しながら指揮棒を振り調和を志すだろう。

 

ポトフ

 みーさんが白湯とポトフを作ってくれる。食べると少し気分が落ち着いたような気がした。それでもすぐに元に戻ってしまうのでどうしようもない。何か焦燥感に駆られている。平然と生きていられる状態では無いのかもしれない。それなのに動くことは出来ずただ手を指を動かすことで精一杯なのだ。生まれ変わっている。日々生まれ変わる。生き続けることなど出来ない。死んでは生まれ、破壊しては創造する。その繰り返しなのかもしれない。きっといつか治ると思っていたこの精神的な浮き沈みは治るどころか年を重ねるにつれて重力が増していくようにすら思えた。それでもここまで耐えてきたのだから生き延びようとも思うが、どうしても終わりにしたいと考える。あと数十年もこの状態が続くのは考えられないのだ。だったら今すぐにでも終わらせたいとそう考えてしまう。寝ている方が楽だ。眠っている間は苦しいとかそういう体の反応を忘れることが出来る。夢の中では幸福な気分さえ味わえるのだ。目が覚めた瞬間に絶望が襲ってくる。意識がすぐに反転する。揺り戻し。それは現実では無いと残酷にも目を覚まさせる。ずっと眠っていられたらいい。もう目が覚めなければいいと思うが何遍も目が覚めては現実から逃げ出すように目を閉じて意識が失うのを待つ。ふわふわとした状態に高揚し夢と現実の間で幸福感を存分に味わい、目覚めた瞬間にまた絶望するのだ。それでも白湯を飲んだ瞬間に体の中が温まる感覚や、ポトフを食べた時の幸福感もなんとか感じ取ることが出来る。しかし、そうやって過食気味になることが不安なのだ。現実の不安を押し殺すために食べることに夢中になってしまいそうで怖いのだ。現にそうなっていた事実があるのだと考えている。苦しみは怒りに変わる。怒りが突然悲しみに変わるのだ。そうやってめまぐるしく感情が入れ替わる。どれが当てはまる感情なのかまったくわからないのだ。ただ何か試しているかのように感情を当てはめてあれでもないこれでもないと、パズルをはめる子供のような状態がいまも続いている。当てがうことの出来ないパズルのピースを、今こうして作り出していくしかないのだ。

 

 

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「当てがうことのできないパズルのピースを、今こうして作り出していくしかないのだ」

結局自分で書いて自分で救うことしか出来ないのか。