溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170911

眠り

 寝付きの悪い日が続いている。うまく眠ることができないと不安になる。思考がぐるぐると巡る。巡るというよりはどこかはまってしまっているようで堂々巡りといったような、そんな思考を止めることが出来ない。「目を瞑っているだけでも疲れは取れる」「眠れなかったら本でも読めばいい」そういって不安を和らげてくれるのはみーさんの言葉だ。実際に本を読み始める。詩を書く。薄暗い部屋。一つだけ灯りをつける。それがなんだか心を穏やかにし、安心させた。それでも布団に横になるとまた思考が巡る。不安に襲われそうになる。今度は深く呼吸をする。呼吸ができていない状態はよくない。息をしているようで体の中に空気が巡らない。滞っている。意識して深い呼吸を意識する。寝ることが怖い。そんな風に思う時期がある。何か恐怖のようなそんな妄想なのだろうか。うまく眠ることが出来ないことに不安を覚えているのかもしれない。それでも質はどうあれ毎日眠れているのだから大丈夫だと言ってあげたらいい。大丈夫。そんな言葉をずっと頭の中で唱え続けていた。それでも大丈夫だ。そう言って祈りに近い言葉を自分に唱え続けた。そうやって自分に声をかけることで、呼吸をすることで何か自分という存在自体から抜け出そうとしているように思う。自分にしがみつくことから全く離れて歌でも歌いたいそう思ってる。何にもとらわれることなく歌いたい。そんな風に思う。深いところで歌いたい。なぜかそんなことを思っている。それは表現なのか、演奏なのかわからないが、何よりも自分自身の深い部分に触れたい。それは瞑想のようなものなのかもしれないが、そうやって深い場所へと潜りその世界をただ奏でたい。

 

生命力

 私たちは蛇口をひねれば水が流れ、コンロをひねれば火がつき、スイッチひとつ押せば電気が流れるそんな世界に暮らしている。それなのに私の心はどこか遠く、一人孤独であるような気がする。大変豊かなこの暮らしに何が不満なのだろうか。不満を抱いているわけではない。何か心がどこか遠く、生きているというそういう感覚が得づらいのだろうか。生きるための仕事をしているわけでもなく、絶対的に生命に関わる仕事でもない。そういう仕事を仕事ということにどうやらうんざりしてしまっている。生きることについて考えている。仕事なんて仕事と言えないのかもしれない。そんな中で生きる仕事とは何かと問いを持つ。それは芸術であるとそう思えるからやっているのかもしれない。文字を書いているようで、絵を描いているようでそれだけではない生きる根源のようなものを感じるために、生きることそのものであるかのように私は創造を続ける。ただその根源に触れようとしているのかもしれない。恵まれたこの世界で私は生きていると感じることが出来ていないのだ。恵まれた環境にいるのだから感謝しなさいと言われても、それはどこか自身の生命的な欲求を無視しているような言葉に聞こえてどうしても受け入れることが出来なかった。私は恵まれた環境にいながらも生きていると感じることが出来なかったのだ。私の奥深くに眠る水源はいつも過剰と言えるほどの水を湧き立たせる。それなのにその水源を見ぬふりをして何も湧き出ていないかのようなそんな顔をすることが出来ない。その生命を表出し流し始めることが芸術ならば出来るのではないかと思っているのかもしれない。恵まれていることに感謝はしたいと思うが、それと生命を感じながら生きることとはまったく別なのだとも思える。だからその恵まれた人間でどうやらあるような私が生きるために芸術ということをしているのならどうにか説明が付きそうな気がしてくるのだ。これが私の今、私が生きているこの世界での役割なのだとしたらきっとそれが私の仕事であるし、それが仕事であるなら私は夢中になって私の内面をどこまでも深く掘り続けて、底などあることを期待するでもなくただ淡々と掘りながら出て来る何か私の宝のようなその反応たちを愛でながら味わい尽くす。そしてそれを栄養に私はまた生きるための創造を始める。これが創造を続けることなのだ。終わることはない。終わらない仕事をただ続けたいのだ。一生かけても終わることのない可能性。その中で生きたいのだ。私は孤独だ、理解されないといいながら、それでも一人になりただ創造を繰り返すことでそれを披露することで、その場が何か、その場所が私たちの内面に眠るその一部に触れる、その瞬間を味わおうとしている。私は内面に触れ続けることしか、問いを持ち、考え続けることしかできないのだ。肉体労働が出来ない。しかし、これもまた肉体労働であろう。これも肉体労働と変わらないと思うからこそ私は私に自ら仕事を依頼し、私は内面から湧き出るままにその仕事を日々繰り返し続けるのだ。それが生きることに直結していなくては意味がないのだ。私は生きるためにいまこうして書いているし、創造を続けている。これは思考である。問いでもあるのだ。私たちが生きることについてどうもその実感からかけ離れてしまっているこの現状を幸福と感じながらそれでも生を感じたいという欲求を満たしたいがだけなのかもしれない。しかしその欲求こそが人が生きる力のような、生命力を震わすことのできる方法であるような気がするのだ。

 

湧き水

 世界のどこかでは今日食べるものも無く、飲み水を十分に確保することもできずになんとか生きている人がいる。それなのに私は毎日欠かさずに食べ物を食べ、十分すぎるほどの水をひねり出す。それなのにどうしても生きることが喜びではないといい始めるのだ。便利であることを否定したいわけでは無く、便利だからこそ生きる意味や価値を見出せなくなっていると考えているようである。だからその生きる意味や価値を見出すことが創造であり芸術なのだとそう考える。根源的なものは保障されているのかもしれない。自然は豊かな国である。きっと恵まれているのだろう。それなのに豊かであるはずの私が生きる意味について問わなくてはならないのは一体なんなのだろうか。ただ言いたいだけなのかもしれない。だから創造する。それだけのことなのだ。だから作り続ける。その言葉をうまく語る語彙力を持ち合わせいない。それでも何か生命を味わう感覚というものがある。それは湧き水が溢れる瞬間なのだ。私の湧き水が溢れ出すのはただ創造からなのだとそう思うのだ。

 

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水が溢れる。

水が流れ出す。

 

そういうことをただ体の中で感じ表出させる。

そういう現象と同じこと。

 

水が溢れ、流れ出す。

その現象とまったく同じなのだ。