溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170912

夏と秋

 夏と秋の攻防。夏の勢力はまだ衰えていなかった。最後の力を振り絞り夏らしさをなんとか前面に押し出そうとして来る。しかし、もうすでに秋はかなりの勢いで夏を攻め倒している。しかし秋もまさか夏の底力がここまでとは秋は思いもしなかったのだが。秋が前面的に日本列島を覆い尽くすまではもう少しかかる。しかしもうすぐそこだ。そうするとまたすぐに冬が襲いかかって来る。なんとも忙しい変動。季節の変わり目はどうも不安定になりやすいのだろうか。季節というよりはこのどんよりとした空とジメジメとした空気に、あまり調子が良くない状態であるからか影響を受け、まるで自分が受け取っているものそのものになってしまったかのようにどんよりとしたジメジメとした陰鬱な気分が襲って来る。かといって消し去ろうと思っても消えるわけでも無く、こういうものがいつかスッキリとした晴れやかな気持ちになれるものだと思っていたがこういうものは定期的に襲ってきて調子が良いなんて感覚は果たしてどこに行ったのか思い出すことも出来ない。1日の中でもそういう風に気分が変動し困り果てている。それもだいぶ落ち着きを取り戻したようにも思えるが気分が晴れないそんな状態の中でもただ行動を続けることしか出来ず、結局こんな時に外に向かおうとしても勝手に不快な思いをして自己嫌悪するばかりなので、だったら内に内にとエネルギーを向かわせることが必要であると思っている。だからなんとなく気分が乗らずに書き始めたとしても結局は勝手に指が動き始める。これは内面で起こってる対話をただ書きあわらしているし、対話にすらならず、言葉にすらならずただ音として現れたものを書き写していることもある。これが精神的な面で効果があると私は思っているし、こうやってかくことで陰鬱とした気分、その思考回路からの抜け道を見つけ、その瞬間だけはなんとか生き延びることを考えることが出来るのだから結局やめることも出来ず、一種の中毒のような、麻薬のようなものでありながらそれでも薬を飲んでいるわけではないので、きっとこれは健康的な麻薬のようなものを自ら作り出しているのだとも思えた。爽快な気分になることをどこかで臨んでいるのだ。この陰鬱とした気分が晴れ、何もかもが心地よく晴れやかな気持ちになることを臨んでいるのだ。それがただ書くことでその方向へと体を導き、流し始めることが出来るのだから、これが生きる技術というものなのではないかと思い始めている。

 

速度

 考えないようにしようとしたところで考えなくてはいけない時が来ます。ですから考えることを止めることなど出来ないのです。思考は続きます。とめどなく流れて来ます。なんとなくそんなことを書いてみている。それは俺だった。俺はいつも車に乗っていた。走ることもあったが30キロ程度でしか走らない。後ろからどんなに煽られてもそのペースを崩すことはない。「気にするな。これが俺のペースだ。俺は誰かに左右されて速度を変えることはない。俺のペースは俺が一番知っているし俺しか守ることはできない。いいかこれは俺にとっての100キロだ。周りの奴らは俺よりも早く走っているように見えて速度は落ちている。それは明らかなことだ。奴らは何もかもを見落として行った。それでも奴らは速度を変えようとはしない。いいか大切なことは見落とさないことだ。速度とはそのことを言っている。速さではない。見落とさないことだ」

 なんとなく俺の言いたいことはわかる気もした。私たちは周りの速度に合わせてどれだけ私たちにとっての味わいを見落としているのだろうか。俺はそのことを言っているし、空はそのことを警告している。空と総称しているが空にいる雲が私たちに警告を促している。風は知らせるだろう。遠い記憶を。風から漂う潮の香りは知らせる。あの時の、あの事件のことを忘れてはいけないと。まだ何も収束などしていないとそう警告する。その間も私の命は虫歯れ続けていることを決して忘れてなどいいものか。もう争いは始まっているのだ。隠蔽と争いはもうそこにあった。消せるはずはないのだ。あったものをないようにしようとするそんな風習に慣れ親しんでいる。これは平和だろうか。これが臨んでいた平和なのでしょうか。この間にも私たちの体が蝕まれていくことを忘れてはならないのだ。

 

聴衆

 ですから書いていますよ。絵を描きましょう。男はそう言って1枚の紙を手渡した。筆は必要ありません。さあなんでも使ってください。絵の具を使わなくたって構いません。さあ絵を描きましょう。紙の上で踊ってみましょう。ほら絵がかけて来ましたよ。あなたの形跡が少しずつ紙の上に乗り舞う。さあ好きなものを使ってください。カラスが羽を落としました。これが絵です。これが紙に現れる動きです。カラスの羽はそうやって教えてますよ。男は小刻みに体を震わせる。それがひとつの踊りのようにも見える。私は言われるがままに紙の上で踊った。踊るたびに紙には線が引かれていく。これが私の形跡のようなものでこれが私の動きであり、絵であるのですか。そんなことはなんだっていいんですよ。さあ踊りましょう。紙をもう一枚さしあげますよ。紙さえあればいいんです。他のことなんて気にしなくていいんですよ。あなたはちょっと気にしすぎですからね。さあ踊りましょう。歌いましょう。男はそういうと歌い始めた。甲高い声で決してうまいとは言えないその歌声が、妙に心地よく感じさせる。うまいとか下手とかそんなことにこだわっているのは人間くらいですからね。悲しいもんです。蝉は生きている間必死に鳴いていたし、鳥は囀りますよ。それが美しいと捉える人もいれば、ただうるさいと捉える人もいる。すなわち聴衆次第ですね。私たちには心がありますから。ですから聴衆次第でどれだけ素晴らしい音楽になるか、素晴らしい空間になるかが決まるのです。大抵のことは聴衆次第ですね。そのことを知っておくといい。あなたも聴衆の一人、私も聴衆の一人である。聴衆という概念を考えなくてはいけませんよ。これまで人を殺して来たのは聴衆ですからね。逆に育てて来たのも聴衆なのです。人を生かすも殺すもそれは聴衆次第ということになりますね。値踏みはいけませんよ。ただ私は質の高い聴衆を知っていますが故にそう提言しているまでです。さあ紙の上で踊りましょう、歌いましょう。

 

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どんよりした雲。

時々、雷。