溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

小説のような日記です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170913

洗濯物

 洗濯物を干してコーヒを飲む。今日は太陽が出ているのでよく乾きそうだ。コーヒーはアイスカフェラテ。なんでもないこういう日常をうまく過ごすことが出来ないような気がしてしまう。日常を生きる強さが欲しいのかもしれない。何かができるようになるより、誰かに認められるようになるより、日常を生きる強さが欲しい。これが願いだとしたらそれは私に取って気の遠くなるようなものかもしれない。思考は逃避行をただ繰り返していた。どこかへ、どこかへ行けばきっとこんな苦しみからは解放されるのだろうと。そうやってまた自分探しでも始めるのだろうか。自分探しなどするもんじゃない。掘り続けろ。ただ自分を掘り続けるしかないのだ。ただ今はちょっと遠くへ行きたい。どこか体を遠くへと流してあげたいというか、そんな気持ちが私の中にはあるようにも感じられる。これは私の逃避的な思考である。現実から逃げ出してしまいたいというそういう弱さなのである。それでも死ぬくらいならとことん逃げ続ければよいとも思う。必要なのはどちらにせよその時にどちらかに決める強さなのかもしれない。それともどちらをも掴み取る柔軟さなのかもしれない。どうも固くなってくるとそれは現実の仕業なのではないかと思えてくるのだ。私たちはただ漂っている。固いという表現はどうも私たちには存在しないようだ。ただしなやかなのだ。空間を漂っていることが私たちで、硬さよりはしっかりとした柔らかさがあるのだ。これは感触の話である。存在について話している。現実で話をすれば固くならざる得ないが、私たちから見ればそれは本来しっかりとした柔らかさを持った関わりである。これが私なのだ。その堂々とした揺れこそが、その揺らぎこそが私がしなやかであることを思い出させるのだ。すなわち何もかもが固く決意する必要などなく、なによりも漂うことこそが重要であるのだ。何かを決めることよりも、何もかもを手放し、ただ漂い続けることの方が重要なのだ。正義感は必要ない。ただ私たち自身の揺れを感じ続けることが、私たち本来のただそこにあるヤナギ。揺れる、木々の、こすれる音。すっと背筋が伸びるような、出来事にそっと耳を傾ける。その時間こそが私たちにとっては貴重であるし、日常なのだ。日常は堅苦しいものではない。ただ漂っているのだ。日常を堅苦しく、重苦しいものに変えていったのは私たちの固さであった。

 私たちはあの頃から出会っていたのです。だからきっと初めましてではないようなそんな挨拶を交わすのだと思います。そしてまた再開をするのでしょう。私たちにはそういう何か決まりごとのようなものがあります。約束なのかもしれません。かといってそれは決まったものではないのです。ただ話したといった方がいいかもしれません。そのことを忘れているが、体は覚えているのかもしれません。また会えることを私たちは楽しみにしながら、緊張しているのかもしれません。そうやって深いところで繋がり合う私たちですからそれはきっと、私の励みになっているのでしょう。きっと、きっと私たちは遠く離れていてもまた出会うでしょうし、どんなに離れていても繋がり合うのでしょう。繋がりが切れるということはないでしょう。たとえ地球の裏側にいようと、たとえあなたという存在が実際に消えてしまおうとそれでも私たちはつながっているのです。これは意識的なことを言っているのかもしれません。赤い糸のことではありません。ただ振動のことを言っています。揺れているということなのです。じっと固まっていてはいけないのです。コンクリートを土の中に流し込むことが私たちの歩みを止めるのです。私たちは遊牧民のようなものなのです。吟遊詩人なのかもしれません。スーツを着た吟遊詩人なのです。会社には行きません。しかしスーツを着ているので会社員なのかもしれません。家に帰れば絵を描いているし、画家なのかもしれません。毎日文章を書いているので小説家であるかもしれません。吟遊詩人は小説家であり、画家なのです。定住はしません。コンクリートではないからです。私たちは固まることなど出来ないのです。あるのは揺らぎです。柔らかな揺らぎ。ヤナギ。しかし根をはることは出来ます。根無し草でありながら根をはります。そうやって栄養を蓄えるのです。そういうことがたとえうまく出来なくても落ち込むことはありません。それでも共に歩めばいいのです。私たちは惹かれ合うし、繋がりあっています。心配はいりません。しかし離れることもあるのです。普遍ではないのです。そのことを知りなさい。強要はやめなさい。ただそっと見守りなさい。あなたは生きる。あなたは生きる。何遍も死にながら生きるのです。私はそのことをただ観察しています。

 これは無意識のダンス。舞いである。私たちは踊る。ただ踊っていることを忘れてはいけない。私はどこか遠くへ行きたかったのです。どこか遠くの誰も知らない場所にただ一人、森の中で、湖に潜り、一人ただ湖になろうと思った。それは移動を意味しない。私は部屋の中で移動していた。あの湖にただ意識として、私はそこにいた。日常から離れた世界に存在していた。それを非日常と呼ぶことが私には出来なかった。私はよりリアリティを求めていたし、実際に感じていた。これはより日常であったのだ。海外旅行といってもよいのかもしれません。実際に私は無意識の世界で踊り旅をする。それが私にとっての旅であるように、私はそうやってまるで世界を飛び回るように、内側を、ただ内側を嗅ぎ、眺める。時に口の中に入れ味を確かめる。そのまま飲み込むことで私は体内に目の前にあった内臓を飲み込むのだ。飲み込んだそれを内臓と呼ぶのか、私は内臓を持ち合わせているのだろうか。私は内臓を外側へと持ち出しているのだから、内臓と呼べるのかが疑問なのだ。これは私の旅であった。だからただそっとしておくことも重要であった。だから私は内臓を置いたのだ。どこの部位かもわからない内臓をテーブルに並べたのだ。ただそれだけのことが私の内面の話であり、これは冒険であるのだ。グーニーズのようなそういう冒険が私たちの内面ではいつの日も繰り広げられているのだ。私は洞窟だ。そこに何もかもを隠してしまったのだ。そのことは忘れている。掘り当てるのではない。揺れるのだ。ただ漂い続けるのだ。それが冒険である。

 

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無意識のダンス。

これでまた書き始めようかな。

 

無意識の旅へ。

今すぐ始める壮大な冒険である。