溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170914

考え

 気づけば何か否定的な考え方を持ち出そうとするのだが、そうやって否定したいのかと言われればそんなことはないのではないだろうか。それは否定ではなく自分はこう思うというただの意見である。誰かを責めたいわけでも自分を主張したいわけでもない。それにも関わらず自己主張がすぎると自分を戒めるのだから私は一体何がしたいのだろうか。特に困っているわけではない。ただ考えているということだ。そのことを単純に書こうと思っている。その間も揺れが止まることはないのだ。震源はここにある。そうやって知らせている。警告ではない。ただ知らせている。知らせを待っているわけでもない。ただ知らせていることを知っている。きっと我慢しすぎたのだ。我慢をさせられたわけではない。自分でそうしてきたのだ。いつの日もそうだ。誰かに強要されたわけでも、お願いされたわけでもない。ただ無言で察したと言ったほうがいい。察した上でそう振る舞った。それはある意味では強要であるのだが、私は自分の責任であるとそう捉えている。どうしてそうまでして自分の責任なんて言い始めるのかがまったく分からない。ただ誰かのせいにすることを悪だと考えているのかもしれない。そんなことが今は頭を巡っていて、ただなんとなく風を浴びて、新築されるアパートだかマンションだからの作業をするクレーンを見て少しの嫌悪感を抱いている。ただその事象に対して何かの嫌悪感を抱いているのだ。これは実際にあった話をしているし、これはもうなくなってしまったことを書いているので、もう実在しないことを言っているようでもある。核心に迫ることはできないのかもしれない。ヤギが挨拶したのだ。ヤギが突然現れて大きな声で挨拶をした。おはようございます。私はそのことに驚き身をすぼめた。あるはずないと思っていたし、今はもう誰もいないもので誰かが私の元へと訪問して来ることはないと思っていたから声がした瞬間に私は慌ててしまったのだ。もう集中し始めていたと言ってもいいかもしれない。かといって訪問してきたヤギは私の元を訪問してきたわけではなかったし、ただ挨拶をしていただけだったのだ。それがヤギであるかの確認はしていない。しかしそれがヤギであるのは知っているというか、聞いていたような気がしたのでそう言っているだけなのだ。

 

散歩

 久しぶりに散歩をして程よい筋肉痛が襲う。あまり外にでる気分になれない日が続いていた。それは容姿への自信がまったくなくなってしまうからであり、誰かに見られたくもないし、それで噂をされたり、悪口を言われたくないという思いからだ。内心では何を思っているのかなんてわかったものじゃない。そういうことをどこかに書き込まれても困る。これは実体験からそう言っているのかもしれない。いい顔をしている人間が気づけば誹謗中傷を、匿名でネット上でしていることだってあるのだ。その瞬間に誰を信用することが出来るだろうか。私はそういうことを未だに根に持っていて、その恐怖から人と出会う場所や大勢がいるところには出向きたいと思えないのかもしれない。純粋に疲れてしまうし、もらいすぎてしまう。繊細であるといえば聞こえはいいが、人がひとり増えるだけでもその空間は大きく変わってしまう。毎日顔をあわせる人ならなおさらだ。人からの影響を受けているのだからそれがどうしても飲み込めないものであれば私がうろたえることも当然であろう。私は大きな器を持ち合わせていない。大変小さい器なのだ。大勢ということがどうしても苦手で、どうしてもそこに存在することができないのだ。それを今問題にしているのかというとそういうわけではなくただそういう自分が持ち合わせている部分につながるということだ。これは記憶なのかもしれない。かといってトラウマと言う気もない。あまり関係がないのだと思う。そんなことを言っている暇はないし、改善する必要もない。治す気もない。これがまったく自分の中から消え去ってしまうことを知っているからである。そういう状態が自分自身であることも知っているからである。ただ覚えているだけなのだ。そのことを書いている。私はこれまであったことすべてを、そこで出会った人を書いている。そこから受け取った反応のようなものを書いている。これは反応について書いていることなので特に意味もないし、考える必要もないのだ。反応から生まれる反応に私は反応して指を動かしているにすぎないのだ。これは実験である。それをただ連ねているだけだなのだ。日常の出来事を書き記しながら反応へと移行する。そういう書物だと思ったらいい。これは自分を納得させるために書いている。それなのにどうしてこんなことを書いているのかと何遍も質問をしてくる。なんの意味があってこんなことを毎日書いているのか分からないと言い始める。だからその効用について書いている。反応を書くことには効用がある。それが私を表出させる一つの手段だからである。実際にこれを書いていることで少し落ち着きを取り戻している自分がいるのだ。ここに書いていることは日常であり、すなわち日記であると言うことだ。日常で起こりうる内面の反応を日記にしているだけなのだ。そう言う意味ではまったく新しい日記と言ってもいい。徹底した反応に対する日記なのだ。

 

ココアと手話

 ココアは少しほろ苦かったし、手話でありがとうございますと伝えていた。それでお互いは笑っていたし、私はそのやりとりで癒されていた。相手は耳が聞こえていなかったし、私の喋った言葉は何とか聞き取れると言った具合だったが、それでもありがとうございますと手を動かした時お互いは笑っていたのだ。それで何か通じ合った。ただそれだけなのだ。しかし私は人を利用して癒されているし、それはその人を笑顔にしたから癒されたのではなく、相手を笑わせることが出来た自分自身を評価し喜び癒されていると言った具合なのだ。それのなにが悪いと言うわけではないが私は何か捻じ曲がった認知でもしているかのような言い分に聞こえてならないが、決して誰かに否定されたわけでもなくただ自分自身で検閲し、評価している。誰も私のことを評価も誹謗中傷もしていない。それなのに過去のその出来事を私は未だに現実で起こり続けているとそう思い続けている。ただそれだけなのだ。

 

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朝起きたら音楽をかける。

少しぼーっとして書き始める。

 

今はこの流れがちょっと穏やかに1日を始められて良い気がします。