溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170915

夢見

 夢を見る力があるならそれは想像力が豊かであるということで、それは無意識でありそれをイメージする力があると言うことだ。目が覚めてしまえばこれは夢だったと切り捨ててしまうがそれがいけないのだと私は考えている。切り捨ててはいけないのだ。それこそが私たちの力であり、それを現実で表す手段を日々鍛錬することが私たちの仕事である。夢がない。やりたいことがないなどと言ってはいけない。夢は見ているし、その無意識こそが私たちが現実で表現すべき仕事であるのだ。夢自体になりなさいとはそういうことなのかもしれません。私はそうやって考え始めました。夢を見る力があることを忘れないでください。それは創造力なのです。あなたが持った力なのです。たとえ見たことを忘れたとしてもその感覚は体に残っているのです。それはすなわちあなたの中にあるということで、いくらでも現しようがあると言うことなのです。それは柔らかいものです。しっかりとした柔らかさです。感触は残されています。しかし流れて行くようであり、止まることはありませんがそれでも確かにその感触は体の中に残っているのです。それはあなたの力だと言うことです。

 

涼しさ

 少し涼しいと感じれる朝。しばらく暑い日がまた続いていたのでようやく本格的な秋がやってきたのかもしれない。装いが変わり始める。身に付けるものが。夏と同じものを身につけていたとしても着こなしが変わる。そうやって人はファッションを楽しんでいるようだ。服がひとつのアイデンティティを示す手段なのだとしたら私はそのための服とは出会っていないのかもしれない。もちろん好きな服というのは存在していて、好き好んで来ているわけだが、しかしもっと私を現すようなものがあるのではないかと思っている。私は布を織る。糸を重ねて布を広げて行く。そうやって布を作っていることがもしかしたら私のアイデンティティを示す一つの世界を作っているのだと思えて、それを身に纏うことでそれ自体が空間に溶け込み、私自身がひとつの作品としてそこに存在するにふさわしいものではないかと思っている。かといって奇抜がいいわけではないのだ。ただ私の中でのこだわりが反映されていればいいのだ。知りもしないのに分かったようなことを言ってもすぐにバレてしまいます。それでも良いのかもしれません。そうやって学んでいけば良いのかもしれません。それでも私は自ら学ぶという姿勢こそが必要であり、学びたいことを学びたいだけ学べば良いのだと思えてくるのです。興味が出たら興味が出たぶんだけ学べば良いのです。しかし自分で調べればわかることを人に聞くことはナンセンスであると私は思っています。これは私の考えであり、尊重されるべき部分でもあります。ただ私はそう考えると思っただけであり、他の誰かの考え方を変えようなどと到底思えません。そんなことをする必要はありません。私はどう考えるのかを知り、深めていけば良いのです。尊重しあえる関係というのを私は求めているのかもしれません。押し付けあうこともありません。そういった私と私の心地よい関係が育めることに意味があるのかもしれません。ですから私は語るのです。語り部であるのです。ただ語り続けるのです。そこに触れたい人に触れてもらうことができればそれでよいのです。それが私の喜びであるのだと思います。それこそが私の生きている実感なのだと思います。この間も思考はまたどこか遊びに出かけようとし、私は意識なく指を動かしていたがそれでもその間に起こっていたことが記されているというよりは、自動的に筆記されている状態がただ続いているように見えたのだ。静かな1日が始まるのだ。それが静かであるかどうか、騒がしいであるかどうかはさして問題ではない。ただ始まることに意味があり、そこに重きを置くべきなのだと考えているのだ。

 

調子

 昨夜から急に調子が良くなり元気があると思える状態が続いている。自分の中で人格のようなものが現れ始めてから、楽になり始めた。キャラクターのようなものかもしれない。語り部がいる。私の中に語り部が存在していて、彼は老人になり、子供になり、女になる。そうやって内面を語り分けるのだ。そういうことが当たり前に自然とできるようになった瞬間に私の体はスッと楽になり、何か滞っているものが抜けて言ったような気がしたのだ。内面を語り始めたのだ。語り部はただ内面を表出させる。それは語るという技術によって表されるのだ。それがひとつ精神的に落ち着かせ、弾ませる効果があるように思えた。私自身が語らなくても良い。私の中にいる語り部さんに私自身を語らせるんだ。だから私の口から言葉が出ているようだが、実際には語り部さんがただおもしろおかしくその内面を実況中継しているような状況であり、それが私自身もその状況をおかしくさせるのだ。真面目ではなく真剣であればいい。真面目と真剣は少し違うのだ。根っから真面目ではいけない。根は揺れてなくてはいけないのだ。根ざしてはいけない。根こそ揺れていなくてはいけない。かといって大地と分離してはいけない。根こそ自由に動き回り、様々な方面に張り巡らせなくてはいけない。根が真面目になってはいけないのだ。すなわち大地が真面目になってはいけないのかもしれない。地震は笑いなのだ。私の笑い。地球は笑っている。それこそが地震なのだ。

 

宣伝

 楽しくなって来たのでそういうときは宣伝活動を積極的に開始する。楽しくない状態で宣伝活動をしてもあまり意味がないなと思ったりもする。楽しい状態であれば相手の反応があろうがなかろうが気にならないし、私は今楽しいよという状況をただシェアしているにすぎないので、その楽しささえ伝われば僕は満足なのかもしれない。やりたくないというよりはまだその混沌とした状態でなんとか絞り出そうとしてもそれはうまく文字にうまく流れ込むことはない。そういう状態になるまでじっと待つということだ。待つといっても体を動かすということだ。移動を続けるということ、揺れ続けるということだ。ただ楽しさを共有したいだけだ。書いている内容なんてなんだって良いことがある。宣伝はそうやってやればいいし、そうしたら止めることなく永久に続けられる。積極的に声を上げることができる。まったくそうでない時に無理に仕事だからといって宣伝活動をしようとするから楽しさは伝わらず、悲観な雰囲気だけが漂ってしまうのだ。これは発信のこともそうかもしれない。ただ楽し状態の時に発信すれば良い。そうでないときは内に向いている時なのだ。とことん内に向け続けるのだ。楽しさを拾い上げた時それを外に放出させるのだ。

 

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今日もどこかへ散歩の予定。

海と山近くにあるのがありがたい。