溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170921

眼鏡

 新調した眼鏡で過ごす。この日は新月だったらしい。新しい何かが始まったような気持ちになる。それは感覚的なものでもあるし実際に現実的にもそういった反応が返ってくる。それをああだこうだと味わうことをしているのかもしれない。あまり多くの人と同調することが出来ない。ここ1週間くらいでの再認識。距離感が重要。あまりに近すぎる距離感では存在していることが難しくなる。そういうことを考えている。そんなに難しく考えることでもない。ただ自分が心地よいかそうでないかだけだ。それなのに難しく考えようとしてしまう。様々な理由を見つけようとしている。今もただ理由を書いている。これは本心ではないかもしれない。ただ浮ついている、浮いている言葉を定着させながら探り出している状態なのだとも思える。正確なものだけを書き記すことが出来ない。それだけを抽出することが出来ない。だから書いているのかもしれない。書くとはそういう役割なのかもしれない。編集ではないのだ。要約でもない。ただ流れであり、動きである。それは音楽なのかもしれない。そういう無限にありそうな感覚を決められた文字の中で、語彙を増やしながら確認しているのかもしれない。終わりがある。これには終わりがあるのだとも思える。終わりがあることを知っているから無限になれるのだとも思えた。私には制約がある。肉体がある。それがなければただ膨張し、何の収まりもない、美しさもない、そういうただの果てしない終わりのないものになってしまうのかもしれない。そうなりながらも無限でなくてはいけない。私たち自身は無限になることができるのだ。それは人間の創造力である。創造力は無限であるのだ。それでもギターの弦は6本だし、紙やキャンパスの大きさにも終わりが来る。その中でどれだけ自由なのかであり、ギターの弦が無限だったら人はもう扱うことが出来ないし、終わりのないキャンパスなら絵を描くことに向かうことが出来るのだろうか。どちらにしろ終わりがない。しかしそれは人間自身の創造力に終わりがないだけであり外的な要因ではないのだ。眼鏡の掛け心地がいい。嬉しいと思っている。大切に使いたい。

 

振る舞い

 「きっと鬱になるからやめた方がいい」

と、僕が何か悩んでいるとみーさんと笑いながらそういう話になる。鬱になっても行きたいのならいけばいいしやればいい。しかしそうでないならわざわざ行く必要もない。最近、人数がある程度いるようなイベントや企画に来ませんか?といったような類のお誘いがある。SNSをやっているとそういうものが増えるのかもしれない。すごく嬉しいし、ありがたい。出来る限り行きたしい、誘ってくれる人に会いたいとも思う。それでもどうしても人に囲まれると疲れてしまうであろうといった気持ちになってしまう。これは正確な言葉ではまだないと思える。参加するという感覚が苦手なのだ。僕が出来ることは振る舞いだけなのだとも思った。その空間での自由な振る舞いをし続けることである。そうやって距離を図れる空間を作りたいと思っているということかもしれない。これは練習なのかもしれない。まず自分がそういう空間を作りやって見ないといけない。それが10月7日の僕の展示のお店での振る舞いなのだとも思った。

 

バランス

 しようと思っていた連絡や返事をする。嬉しい気持ちになる。連絡が出来たことや、そうやって少し接点を持ち関わりが持てたことに対してなのかもしれない。小さなことだがそういうことが案外重要で繊細なのだとも思った。生まれた時とは確かに変わってしまうことがあり、それは変化していることでもある。今は変化したその状態が馴染んでいたりもするのだが、一度生まれたての状態を確認しておくこともまた必要であると思った。気づけば変化していく。その時に出来る演奏をしているだけなのだとも思う。それでも生まれたてのその瞬間の状態もその時にしか生み出せない、自分自身の音楽でありそれが存在していたことは確かなのかもしれない。こうやって書いています。書くことで確認してるのだとも思います。今は意識が外へ向いています。そのことを感じているし、止めようとも思いません。ただ胸にある感覚を、体が感じているその反応に耳を傾けているのかもしれません。そうやって声を聞いているのかもしれません。無視しません。声を聞くことが仕事であるからです。なんだって構いません。徳を積もうが積むまいがどちらでもいいことです。どちらにしても徳は積まれます。これは私が感じたことです。どちらだっていいのです。私たちはどちらにしても徳を積んでいるし、体験しています。そのことから感じているだけです。感じていることをなかったことにしないだけです。自分の言葉で意見しています。そのことを書いています。論理的に書いています。あなたの言う論理とは違うのかもしれません。それでも書いています。これは枝の動きであり、落ち葉の揺らぎです。太陽の反射のことを言っています。鳥の巣の形や時計の動きと似ています。目の前に広がる道のことを言っています。その道は見えていません。ただ私が判別している道です。それは無限すぎるのです。海よりも広大なのかもしれません。だから楽器なのかもしれません。だから絵を描いているのかもしれません。制限を作ります。その中で自由であることを、私は無限であることを確認しているのです。終わりはそこにあります。人間が扱える範囲をこえてしまったのはどうしてなのでしょうか。暴走を止めることが出来ません。人間が暴走したわけではないのです。無限すぎただけなのかもしれません。その分楽器が絵が私たちを制限し、より自由にさせるのかもしれません。私たちを規則的にするのは絵であり、音楽なのかもしれません。もう広がりすぎてしまった都市の明かりを見て、私はただ果てしないもう終わることない行き着く先のない状態を見たのかもしれません。それこそが無法地帯なのかもしれない。自由は与えられるものではないのだと言ってるようです。自由は人間自身が生み出してると言うことです。決して、環境が街が与えるのもではないのです。人間自身から発せられるのです。それは規則的であり自由なのです。縛られることなく縛っていると言うことです。バランスのことを言っているのかもしれません。私の中のバランス感覚が必要であると言っています。拡張するのは私たち自身の想像力なのです。そしてそれを創造するのです。作り続けるのです。その継続の中から導き出すのです。言語を持つのです。やめないこと。それだけなのです。

 

 

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海の上のピアニストを見た。

好きな作品がまた増えた。