創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20170922

画面の中

 少し倦怠感がある。かといって不調というわけでもなく、多分頭が疲れている。情報の受け取り過ぎ。それでも癖になっていてやめられずにずっとパソコンを見てしまうことがある。明らかに疲れているのだが、パソコンの画面から一人になるのが不安なのかもしれない。もう少しうまく距離感を掴めたら良いのだが、つい没頭してしまうというか画面の中にめり込んでしまう癖のようなものがある。中学生の頃から携帯を持っていたからなのか画面の中が僕の世界であるようにすら思えてくる。そこに友達がいたし、情報もあった。そうやって育ってきたからなのか、現実ではない何かに自分の世界があるとでも思い込んでしまっているようなところがある。パソコンの画面の中は空想でも創造でもなく、それもまた現実であるのだがやはりそこに没頭しすぎると不健全な状態になってしまう。出来るだけネットは切るようにしたい。明らかにパソコンの使い過ぎで疲れている。

 

カカオ

 鎌倉駅前のダンデライオンでチョコレートドリンクを飲む。コーヒではないものを飲みたいと思ったので、チョコレート屋さんに行った。2階はカフェスペースになっているのでそこでしばらく書きながら過ごす。カカオと鎌倉のお茶が入ったようなものを注文したが甘過ぎずでよかった。近頃朝カフェに行きたくなることが多い。少し場所を変えて過ごしたいのかもしれない。家から出たいと思えることはいいことかもしれない。外では携帯も持っていないのでネットに繋がないし思考は忙しくても息抜きになる。家に帰ってきてからのことに集中することも出来る。遠出は疲れるので散歩をしたらいい。今週は何度か東京に行く機会がありそれが疲労につながっている感覚もある。それでも久しぶりに電車に乗って遠出できてよかったと思う反面、もう電車には乗りたくないと思う自分もいる。電車に乗って遠出はしたくないということだ。何かをしていたいのかもしれない。ただ座っているなら運転がしたいとかそういう類のものかもしれない。主体的に動きたいのだ。もちろん電車でも読書とかやることはあるのだが、どうも退屈してきてイライラすることもある。あまりに長い電車の移動は向いていない。

 

表面的

 なんとなく今は表面的なことをただダラダラと書いている。まったく意味のない文章かもしれないが、そういう気持ちというか、ストレスのようなものが積もり始めているのかもしれない。ただの発散になっているかもしれないし、何か重要なことを書いているかもしれない。そんなつもりもないし、どちらでもいいことなのだとも思った。動くことに意味がある。書く行為自体に意味があり、内容はどちらでも良いのだ。どうせ誰かにとっては偽りの文章である。自分にとっての真実であるかもしれないが、誰かにとっては偽りである。それに自分で何を書いたのかを覚えていないし、何かを記憶したくて書いているわけでもない。ただ水になるために書いているのかもしれない。流れ出すために書いている。体の中を空洞にし水が流れ出るような状況を作っているのかもしれない。これは運動である。書いているだけである。指を動かすことで、思考の抜け道を探しているのかもしれない。ぐるぐると回り続ける停滞した思考の運動に全く違ったところから刺激を与えて、自分の状態を揺り動かそうとしているのかもしれない。没頭しているのかもしれない、退屈しているのかもしれない。どちらかすらわからなくなっているのだ。認識することが出来なくなっているし、もう止めようとも思っていないのだ。鳥が鳴いた。探していた。鳥は探そうとしていたが巣から飛び立つことが出来なかった。だから存在を知らせるために鳴いていた。単純なことだった。鳥は自らが飛べると信じていなかったし、その瞬間にもう飛び立つことが出来なくなってしまたのだ。羽はある。まだある。しかしない。なくなってしまった羽は確かにまだ存在していた。それを羽と呼んでいいのかはわからない。鳥は忘れない。飛べないとすら思っていない。出来ないと考えない。私は考える。出来ないと考えている。飛べないと考えている。だから飛べないのである。羽は飛べないと思い込んだ瞬間から消えて行く。皮膚に吸収され背中は平らになっていく。それでもその形跡は残る。また生えてくる可能性もある。私は龍だった。鳥は友達のことであるし、それは夫婦なのかもしれない。私は龍である。ただ揺れているし、龍穴にいる。洞穴の中で過ごす。外に出ることは稀である。空を飛んでいる。大抵空にいる。それか洞穴のどちらかである。地下か空かしかない。間がないのだ。私たちは極端である。中途半端なことはしない。どちらにも存在するが半端なことはしないのだ。悪ではなく、私は味方になれる。それは私たちの役割である。だからどちらも共感ができる。地下でも空でも共感ができる。人間に共感することは難しい。私たちとは異なった考えを持っているし、終わりがない。彼らのやっていることに終わりがない。行く末を見守ることもできない。祖先に丸投げ、自分がよければなんでもよいのである。私たちはそういう考えを持たない。何年も、何百年も、何千年も先の子孫のことまでを考えて判断する。だから空を飛ぶし洞穴を住まいにする。姿を見せることはない。しかし見えているし、存在している。その存在を感じることがあるはずなのだ。なかったことにしてはいけないのだ。

 

水炊き

 最近水炊きにはまっている。手羽先と鶏肉、ウインナー。白菜、水菜、豆腐、大根。大根は下茹でする。こういう一手間を怠らない方が大根付き合いはうまくいくことがわかってきた。おかげで柔らかい食感の大根と出会うことができる。とにかく簡単。それに言い出汁が出る。その出汁を使って雑炊にするのもグッド。手羽先に食いつく自分が少し恐ろしいと思いながら、鶏さんに感謝する。コラーゲンではなく鶏なのだと思った。コラーゲンを取るために鶏がいるのではない。鶏は鶏なのである。それでも僕は手羽先にしゃぶりつく。無駄はないようにと思いながら。

 

政策

 結局、寂しいとかそういう気持ちを抱いているのだと思います。一人であることが悲しいとか、寂しいとかそんなことを言い始める気がします。それでも自分が選んでいるのだからそれはそれでいいのだと思います。他人に合わせても仕方ないのだと思います。寂しいわけではないと思いました。悔しいのかもしれません。もっともっとやれると思っているようです。だったらやればいいだけなのだと思います。ただ淡々とやりなさい。作る続けるしかないのです。これは勢いや根性論ではなく、ただ言葉が足りていないだけのような気がしました。死なないための政策なのです。これは私が作った死なないための政策であるのです。

 

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センス良く、おしゃれに、カッコよく。

それは人が集まれば出来るのではなく、

どれだけ自分の内面と共に過ごすかなのだと思いました。