創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20170924

駅弁

 展示の備品の買い出しに行った途中で北海道駅弁フェアに出会う。思いがけない出会いについ惹かれ駅弁を購入する。これからの旅の出発を祝う駅弁らしい。蟹といくらと鮭のお寿司が入った駅弁。意外とボリューミーで満足。ドーナツを買ってアイスカフェラテを飲みながら一息入れる。どこか疲れているような感覚が続く。調子が良いわけでも悪いわけでもない。どちらとも言えない。ただその状況でもじっと何かと対峙し続けるような時間が続く。かといって解決しようとも思わないし、問題を見つけ出そうともしない。そういうことにすっかり疲れてしまったのかもしれない。永遠にそれだけやっていても仕方ない。そういう状態を置いておきながらただ運動し続けるしかないといった具合だ。心が晴れるとか体が軽いとかそういう前向きな状態を望んでいるのかもしれない。かといって落ち込んでいるわけでもないのだと私は言った。そう言っていたのはずいぶん前のことだった。私はそのころからそういった気持ちのようなものが続いているとそう言っていた。聞き流そうとはしなかった。ただ単純に聞き入れたのかもしれない。私はそうやって空間を確認している。それは自分自身の存在することができるスペースのことを言っている。数字の話ではない。伸び縮みの話をしている。

 

現実

 深く入り込もうとしているときに言葉が現実に引き戻す。そのことに絶望する。それでも諦めずにまた同じことを繰り返す。怒っているわけでも悲しいわけでもない。ただ滞りを感じている。これは絶望でもない。絶望なんてそもそもしていないのだ。ただじっとしているだけだ。言葉に出すともなく内面で起こることに耳を傾ける。そうやって入り込んでいくときに現実へ引き戻そうとする力が働く。その状態と対峙しなくてはいけない。争うことはしない。ただじっとお互いが引っ張り合うことを繰り返しているだけなのだ。書くことにおいては特にそういうことが重要なのかもしれない。書いている最中に言葉が入り込んでくるとき、私の中で流れていた言葉は死んでいく。そんな中でも集中すること、周りを気にしないことなんていうがそれとこれと話は別なのだ。環境のことを言っていない。ただそういう動きのことを観察したことを、観察したままに書いている。感じていることを言っているのかもしれない。何を感じている。私たちは耳で感じている。耳から処理している。言葉は耳から流れ込んでくる。そのことを書いているのだ。それは静寂であるのかもしれない。様々な声が体に流れ込んでいる。その状態を現実が引き戻そうとする。折り合いをつけなくてはいけない。そうではなければただ爆発した、粉々になった、細胞が散っているだけのただ転がっているだけの状態になってしまうのであろうか。私たちはその細胞を拾い集めている。落し物に近い。ある部屋に集められる。拍手が起こる。私たちが拾い集めたことに対して拍手が起こるのではなく、ただ音楽として拍手が起こるのである。自然とは何か。私たちは自然なのか。人間と人間。自然と自然。ただ何かに移り変わろうとはしない。代替療法にはならない。替えはないということである。それでも私たちは虫になった。蝉だった。もう消えてしまった。気づいたときには消えていた、名残惜しんでいたことも忘れていた。ただ忘れた。私たちは耳で聞いているからである。耳から入るものが全てである。音こそが私たちの状態を決める。叫んでいる。私たちは叫んでいた。海は何度も叫んだ。押して引いていた。叫ぶことを辞めなかったし、辞める気もなかったのだ。ただ衝動的に叫び続けていただけなのかもしれない。森は静寂を貫いた。何も反応することはなかった。しかしその微細な動きだけは感じ取ることはできた。それでも森は動いていた。死んでいなかった。森が死ぬことはなかった。死んだと思い込まされているだけだった。幻想なのだ。幻想を見ていた。土壌で生活している。私たちは土壌で生活をしていた。今ではもう耐え難い状態が続いた。空へ来た。雲になったということかもしれないし、蝉は元来鳥だった。鳥であった蝉たちの声は進化した。響き渡るようになった。周波数は一緒だった。まったく同じだった。変えていったのは鳥の方だったのかもしれない。蝉は元来の音を貫いていた。そのために命を落とした。蝉の周波数では生命を保つことができないのだ。短い人生だと嘆いているのは人間だけであり、蝉にとっては膨大な時間が流れ永遠にすら感じられた。しかし蝉が死ぬことはなかった。何度でも生まれ直すからだった。蝉は記憶こそないものの生きていたことを覚えている。それは記憶とは違ったものだ。前世とも違う。遺伝子なのかもしれない。かといって蝉はそれぞれが違った個体であった。蝉には個性があったのだ。そのことを鳥たちも知っていた。海は叫んだ。そのことを海は叫んでいた。荒れていた。風はやんだ。一時停止した。その瞬間も風は存在していると、蛾が飛んでいった。私の帽子に止まった。そのまま帽子になった。鳥の巣を落とした。私たちは落し物を集めた。部屋に集め始めた。また始まったのだ。何度だって始まっていた。そして終わっていることを忘れていた。私たちは永遠に続くものと考えるが何度も終わっていることをただ忘れている。すなわちもう死んでいるのだ。何も続いていない。これは記憶ではない。夢を見ていない。夢自体になっているのだが、そのことを自覚している人間は少ない。どうやら私はまたどこかに入り込んでいたようだった。出入りの繰り返しだった。また現実は引き戻す。今度は自主的に舞い戻ったのだと思えたが、それでもまた湖の底へと潜ろうとしていた。中心に行けばいくほど湖は深かった。暗闇が広がっていた。深海魚は光っていた。実際に光っていたのは私自身だったのだがそれが深海魚自体が光っていると勘違いさせた。それは幻覚に近かった。私は泳いでなどいなかった。ただ底へと落ちていたのだった。誰も引き上げようとはしない。これは一種の儀式のようなものでそのまま湖の底を抜けていくのだ。その瞬間にものが倒れるのだ。私はまた現実に引き戻される。ただその繰り返しなのだ。これは手繰り寄せる作業と言っていいのかもしれない。私は手繰り寄せることを繰り返しているだけなのだった。

 

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今日は明日からの展示の搬入。