溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20170926

内面描写

 頭で考える正しさを身体が理解するかどうかはわからない。身体とはすなわち心といっているかもしれない。見た目の美しさや、綺麗さを頭は知っているのかもしれない。私も確かに知識としてそのことを知っているのだ。しかし、腰が曲がった老人の腰をまっすぐに戻すことが本当の美しさなのか私には理解ができないのだ。腰の曲がったら老人のその形が美しくないのだろうか。それとこれとは全く別だと言える。全く別のことを全く同じことのように、何か関連性があるかのように誇大妄想を繰り返す。私は今胸が苦しいのだ。今はそうでもない。かつてそうだったのだと思える。私の中で異常な反応を示すのだ。正しさに対してではなく、これは私の価値観への反応であり、私はただその常識のようなものに揺さぶれているのかもしれない。その中で私は一体どう振る舞うべきなのかを問うている。何も始まってはいなかった。それなのにもう終わってしまった。あの頃そういっていた。あえて名前は出さない。名前もなかったのかもしれない。とはいえ、名前を覚えることが出来ない。記憶することが出来ないのだ。私はただ内面描写をしているに過ぎない。ただその作業を繰り返すことしかできないのだ。これがその作業と言えるのだろうか。これは正しい内面描写だろうか。書き方を聞いて何になるのだろうか。これが内面描写と言えるのなら、内面描写なのだろう。何に不安を抱いていますか。疑問を抱いていますか。怒ることもなければ悲しむこともありませんし、不安になることもありません。私たちは安定しています。ただ渦の中で安定しているのです。渦は湖、川へと続き、海を通り越し、空へ。ずっとずっと空の彼方へ。どこまでも泳いでいく。それは漂いグッドラック。お日さん浴びて、エサコラッサッサ。どっこいしょ。どこ行くどこ行くどっこいしょ。踊れや踊れ、歌えや歌え、酒はいらない、エサコラサッサ。街は眩い太陽に、暗闇入って眩い太陽。どちらも俺には瓜二つ、どちらも消えては蘇る。道無き道には道はない。道は頭の片隅に、そっと置いてやくれませんかね。そっと触れてね。激しさは得意じゃないし、敏感なの。優しく触れる、優しく剥がすそんな、ドタバタせずに足跡消して、静寂の渦へと紛れ込んだのは、トトトト。トトトトト。足音鳴らしてスタコラサッサ。

 

日記

 私は詩的小説を散文している。これは日記だ。形式は何か。形式に対してなんら自信がない。何も抱くことが出来ない。形式というものがわからない。私は何をしているのだろうか。なんの形式もないとはいえない。書くという形式の中で書いている。書くという枠には収まっているのだ。その中で無限に創造している。そう考えたら少しは気が収まるのだろうか。これは循環と言っていい。体内に留まったものを体外へ促す作業であるが、それは意識が外に向いているわけではなく、どこまでも内側に向いている。内面描写と言えるんだろうか。私は寝ている時に、私は内面描写を永遠と続けることしかできないとそう悟った。私には外へ向かうエネルギーが欠如しているとそう思ったのは寝ている時のことだった。確かに寝ていたが思考は続けていた。これは寝ているのか、整理しているのか、これは一つの技術であると思うのだ。眠りながら思考を整理する。その瞬間私は胸にある苦しみから解放されたのだ。これは麻痺だろうか。勘違いと言っていいのかもしない。実際には消えていないし実在すらしていない。私はただ身体が反応していると言ったのだ。対処したまでだった。その都度対処しているに過ぎなかった。根本解決しませんか。どうか根本を治癒しなさい。私はそうしたいと願っていたが、根本とは何を言っているのだろうか。根本すらない可能性。私は捨てない。根本のことを考えるのだろうか。それならば私は根本を抱きながら、ただ内面を味わいながら死ねば良いと思えるのだ。これは本心か。これが根本か。もう変えようとは思えないのである。期待は麻酔だ。希望こそ麻酔なのだ。そうありながら希望を抱き続けているのである。どんなに絶望しようと希望を見出すのであり、これは本質なのだろか。コロコロと変わる内面のダンスを、私はコロコロ転がりながら坂道下る、たどり着いた浜辺で、ちょっと暑い砂浜で眠る太陽を隠し、瞼閉じる。どこまでも続く、砂浜の景色は、私には根付いていない。根本はどこへ言ったのですか。根本は駐車場。アスファルト、コンクリートの上にある。私の根本どこまでも。旅に出たのは毛先だけなの。根本は離れようとはしない。それは原風景と言えるのかもしれない。どこまでも続く灰色の大地。その下には土が眠っている可能性、そこには海があった。埋め立てられた大地を、私たちは大地と呼んでいるが、そこは海であったのだが、何が一体起こっているのか、判断しかねる出来かねる。消えてしまおうか。もう消えてしまおうかと、空から眺めていたカラスは言った。俺たちが消えてしまおうかと言った。お前たちじゃない。俺たちが消えてしまえばどうなるかわかるだろう。俺たちが消えてしまったその瞬間に、黒は消えるんだろう。この世界から黒が消えた時、お前たちはきっと焼け死ぬだろう。焼け焦げることもない。ただ燃え続けるのだ。黒がないとはそういうことだった。私はそのことを思い出していた。砂浜に聞いていた。家の布団で寝ていたはずの私は今、砂浜で寝転がっていた。海はなかった。水だけが押し引きしていた。それは海水ではなかったということだ。潮だけが引いていた。潮だけが引いて、水だけが残った。これは雨の風景だったのかもしれない。これは水たまりだった。私には大きすぎて到底先までたどり着けないと思えた。それなのにカラスはもう水たまりの端までたどり着き、ゴミ袋を漁っていた。食料を啄ばみ、また空へと飛び立っていた。私たちが見ていたのは光景であった。そこには光が差していたから、そっとそのことを見守っていたのかもしれない。終わりを探していた。私たちに終わりあるのだろうか。無限すぎるこの世界に私はさまよい歩くのであろうとそう言った。どの道を選べばもいいかわからないとそう言ったのだ。だから私はここで生きることに決めたのだ。それは私の内面である。すなわち家なのだ。これは鳥の巣だ。カラスが帰っていた住処だった。

 

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これは詩的な日記小説だ。