創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171002

答え

 私は何か答えが欲しかったのだろうか。答えではなく言葉ではないか。どんな言葉を望んでいるのか。それは私の中にある言葉だった。それを他人に求めていた。言われないと分からないことがあるのだ。そうすることでより内面を見つめ直すことができるのかもしれない。このことはとある聖書にも書いてある内容だった。いまその聖書がどこにあるかは定かではなかったし、書いた人物も不明だった。その聖書はそもそも存在していたのだろうか。書かれていた内容はこうだった。「内面を見なさい。還って来なさい。旅をし内面の世界へ還って来なさい。するとあなたが批判していたことがまったく批判することも出来なくなるでしょうし、あなたが葛藤していたことが葛藤することもないと気づくでしょう。帰る場所はここにあるからです。これこそが滅ぼしてはいけない文明であるのです。文化を作るのは文学であります。すなわちそれは文字であり言葉なのです。還って来なさい。」私はその内容を知っていたのだが、どこで知ったのかは定かではなかった。それでも私は子供の反応に関心を示していた。いたってシンプルだった。考えることもなかったし、ただ直感的だった。むき出しであった。恐れることもなかった。私は大人に言われる「好き嫌い」よりも、子供に言われる「好き嫌い」の方が素直に受け取ることができた。それは大人の言葉が耳に入らないというよりは、私の受け取りに問題があった。私は思惑する。すぐに何か断定し始めるのだ。しかし、子供に言われた「好き嫌い」の後に大人に言われた「好き嫌い」を思い返してみれば、それはとても貴重な意見であり、私にとって大変価値のあるものだったのだ。そう考えると私は喜びに満ち溢れていた。私は未熟である。これが今回展示をしていて感じていることであるのだが、そうだこれはここまでの展示で感じたことを書いているのだ。これは真実である。私が感じていたことであるし、これは私にとっての真実だった。旅でもあった。山に登ることもそう言えるのだろう。片時も離すことがなかったあの頃のぬいぐるみはもうどこかに旅立っていた。それでもその時私はぬいぐるみを愛していたし、大切に扱っていた。そこには生命があるように感じていた。素材とかリアルさとかそういうことではなかったのだ。ぬいぐるみにこもっていた魂を感じていたのは誰しもが感じたことがあるものだ。それは私が映し出したものだ。私が投影した、映画の上映会のようなものだった。ドキュメンタリーではなかった。かといってどのジャンルに当てはめれば良いのだろうか。演劇に近いのかもしれなかった。私とぬいぐるみは同一化されていた。そこにやってきたのは一人の男の子だったのだ。彼はとてもひょうきんに見えた。よく笑うし、何かに捉われることもない。人が心底好きだったのだ。彼は店内を駆け回っていた。迷惑であるとか喜ばれるとかそういうことを考えているわけではなかったのだ。これは私のことか?これが私の姿なのだろうか?困惑しているのは男の子の方だった。まるでもう子供という時代が終わってしまったかのように表情は無くなっていた。消えてはいなかった。まだ残っていたと言っても良いかもしれない。私は泣いていた。涙腺は緩んでいたのだ。これは奇妙であるのか。奇跡でもなければ、当たり前でもなかった。ただ実在していたし、存在していただけだった。それは風のことだったかもしれない。吹いては消えて。「風は吹いていない時どこにいるの。」これは有名な言葉だった。

 

子供

 子供でいることが難しいのだろうか。私たちはもともと幼かったし、子供時代というものを通過していたが、果たしてどれだけ子供というものを味わうことができていたのだろうか。子供であることを捨て去ったのは私たち自身ではないだろうか。私たちが捨て去った子供時代は忘れ物置き場に集められる。これは駅の中にある忘れ物置き場のような場所だった。最寄りの駅に確かめに行くのだ。「生き詰まった時にそこに行ってみなさい。あなたの忘れていたものが見つかるかもしれない。どうか全てを捨て去る前にそこに行ってみたら良い。」そういっていたのは田舎に住んでいたおばあちゃんだった。確かそうだ。これは曖昧な記憶であるが、確かな記憶でもあった。暗号であり音楽だった。歌っている時にその意味を表す音がしていた。これは私の中からしていたのだ。

 

憑依

 まったく批判なんて出来なくなりますよ。これは私自身に言っています。きっと批判していられるうちは楽なのでしょうね。私はそうでしたよ。私はむき出しになった時、人のことをどうこうと言っている場合ではなくなりましたから。そんな考えはなくなりましたね。ただ暇だったのでしょう。やっていないから言えてしまうことがあるのだと思います。しかし、それは巻き込むべきものでもあるのかもしれません。批判するということ、それはエネルギーの現れですし、それは恐れでもあるのです。ですから、私は「共に進むか?」と声をかけるかもしれない。もっとよくなるように出来ることは何か聞くかもしれないでしょう。それで判断するかもしれません。それによって決めるかもしれません。私はきっとそうするでしょう。だから私は踊っていたの。柱があったから。これは私を舞わせるために立っている、支えのようなものよ。支えはここにあるのかしら。私はそこで立っていることが出来るかしら。私は叫んでいたわ。発狂とも違かった。周りから見たら何の変化もなかったはずよ、私の見た目には。変化していたのは私の内面にある状況のようなものかもしれない。私は錯乱していたわ。実際にはしゃがみこんでいた。柱に寄りかかってしゃがみこみ、土に触れていた。コンクリートのしたに眠っていた土の声、そして埋められた死者たちと話をしたわ。彼らは生きていた。消えることはなかったわ。いつの日も声を上げていたわ。囁いてた。それは静かな夜のことだった。明かりが消えた、私は一人街を歩き、山を登り、明かりの消えた街を見下ろした。その時と同じだった。声がしたの。流れ込んでくるような気がしたわ。これは憑依なのかしれない。いたこなのかもしれない。体質的にね。流れ込んでくるの。あなたが。何か大きな抵抗を抱えているなら私は遠くへ行ってしまうでしょうね。だからむき出しのあなたを誘い出してしまうの。恐れのないあなた自身をね。これはおかしな話かしら。私には聞こえるの。だからって外に連れ出す気もないわ。ただそのことを私は知っているってだけよ。伝えようともしないわ。だから私は一人でいるの。これ以上私の中に入り込まれると私は混乱してしまいそうなの。どうかそっとしておいてください。どうか私をどこか遠くの土の中へ、そこで声がする。そこで聞こえる。私は駆け回っていた。私はまだ子供だった。

 

f:id:mizokoji:20171002115615j:plain

スタバのほうじ茶ティーラテがうまいです。