創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171007

ワッフルセット

  連休明けだったヴィブモンへ行く。たまに朝行きたくなる。モーニングのタイムを過ぎると少しお客さんが増えてくるので、それまでの時間に滞在するようにする。朝はワッフルがセットでつけられるので幸せ。ボリュームもあってお腹も満たされる。その後はライブのリハーサル。なかなか楽しみ。夕方から展示会場へ。展示を楽しんでもらえているようで嬉しい。展示されているのは僕の日記のようなものなのかもしれない。僕がまだ言葉にしていないような感覚的な部分を言葉にしてもらえるのは嬉しい。そういうことが僕の探求にもつながる。晩御飯はごま豆乳鍋。つい具材を入れすぎてしまう。理性的な考えが出来なくなっているようだ。あるもの全部入れてしまいそうになるから困ったものだ。それでも体も温まり、お腹も満たされてよかった。汁が余ったのでラーメンで食べる予定。食後絵を描く。最近はコピー用紙にミツロウクレヨンか鉛筆で線を乗せて、それを追っている。何か思いがけない線を見つけたい。そこからなにか生命を定着させたい。明確なテーマがあるわけでは無い。描きながらそこに何か世界観のようなものを発見しようとしているのかもしれない。人のような絵が多くなる。子供のようでもある。そういうのが多く描かれていく。お風呂に入り本を読む。けものになること。一度読んだ時よりもついていけているといった感覚がある。意味ではなく、その流れのようなものに。布団を敷いて、ゆっくりしながら映画を観る。飛ぶ教室。僕は時代に流されず自分の信念を貫いていた人物に惹かれるのかもしれない。探せばいる。ただ出会っていないだけだ。探さなくてはいけない。だからこそ自分自身が何に惹かれるのかを知っていなくてはいけない。誰かが教えてくれるものではない。自らが獲得し、知覚する。呼び覚ます。記憶。忘れていたことを思い出す。過去の、歴史、作り上げられた隠された記憶。それは闇でも光でも無いのかもしれない。ただの積み重ねだった。積み重なっただけであった。そのことをむやみやたらに信じている。疑問を抱かなくなったらおしまいだ。信じる必要もないのかもしれない。何もかもに疑問を抱きながら、信じるのかもしれない。それが原動力である。何も奮い立たせる必要もない。いずれ動く。それまでじっと耐えることも勉学である。耐えることに慣れてもいけない。危機を感じるなら逃げ出すことも重要なのだ。強くある必要もない。弱くある強さが必要なのである。助けてほしいと言うことだ。困っていると言うことだ。コンサルタントにか。お金を払って言うのか。社会問題は家族問題。隣にいる人に言うのだ。きっと話したところで伝わらないだろうと嘆いていても仕方がないことなのだ。そんなことをいつまで言っていても仕方ないのだ。そんなことよりも作り続けることだった。そうやって示して行くことだ。芸術を元にコミュニケーションを取ることだ。そうやって人付き合いしていくことだ。分かってもらいたいからではないのだ。これは一つの装置だった。作られた壁を取り壊すための装置だった。私が生まれた頃に崩壊した壁。それは東西を繋いだのだ。私は壁を取り壊すための装置だった。そこに立ち会った一人一人だった。なぜ東西を繋ごうとしたのか。それは深海。そこで起こる。繋がり合う。暗闇の中で出会う。そっと触れ合う。手を触れる。だから握る。自然なことであった。触れることを恐れる。距離を測ることで人は孤立して行く。触れられることが強さであったし、それこそが孤独であるのだ。触れないことは孤独でもなんでもないことを知らなくてはいけない。一体でありながら乖離するのだ。乖離しながら存在がないことを知るのだ。しかし肉体は存在する。溶けているのかもしれない。体は蒸発する。どこまで広がっていくのだ。

 

冷房暖房

 すっかり布団が欠かせない。寒さ対策。冬に向けて。冷房暖房だけなのだろうか。どこか生命力が衰退して行くのはそのせいなのだろうか。冷房暖房がない家。そこでどう生きるかが生命力であるし、生きる力なのではないだろうか。

 

 

センス

 センスがあるないという。センスはあるのだが活かしていないだけなのだと思える。依存しているのだ。言葉に。言語が文化を作り、コミュニティを作っている。選ぶ言葉で人が知れる。センスは言葉か。使わされていてはいけないのだ。言葉を使わされていることに気がつかなくてはいけない。言葉で踊っている。それは踊らされている。安易に口に出来るものでもない。緊迫感がある。緊張感を保ち続けなくてはいけない。そこにある。そこにある。そこにある。鍵はそこにある。安易になってはいけない。かといって固まる必要もない。ゴムボール。押しても戻る。柔らかさ。たかが知れていることだった。そこには質感がある。言葉の質感かも知れないし、それは擬音だった。含めることは安易なことではなかった。それはついてくるといっていい。どこまでもどこまでもついてくるのだ。離れようとはしない。しかし一つのものであるのだ。一つとは何か。「1」に含まれる成分は容量は、質感は。漂いは。艶やかさ。数字であることが悪いのではなく、数字から感じ取る頃ができない感性を疑うべきである。感性は取り戻すことが出来るか。取り戻すも何もないのだ。もうそこにあるもので失いようのないものなのだ。それなのにどこ捜しまわる必要がある。ほっつき歩く必要がある。何も考えずただ歩くのだ。それは徘徊のようでもありながら洗濯物の香りと似ていた。すれ違いざまに感じる、人の香り、犬の、車の排気ガス。残して行く香り。タバコを吸っていなくてもタバコを吸っていたことはわかるし、それなのに隠す必要もないと、気にするならなぜ吸うのかなんて言ってはいけない。そういう残り香の、漂い。それこそが舞いである。踊らされているのとは違う。それは芸能だった。本来の芸能の在り方であった。消費されるものではなかった。永遠に途絶えるものではなかったし、消費という概念すらなかった。需要に応えるつもりもなかった。ただ溢れ出ていたからだ。そして声を聞いていたし、それを書いていた。それが私たちの言語だった。

 

f:id:mizokoji:20171007073607j:plain

今日は展示会場でライブです。