溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171011

整体

 整体を受けに行く。数ヶ月体が固まっていると感じながら過ごしていたので展示が終わったのと同時に体を緩めたかった。背中から腰にかけてだいぶ緩み、呼吸がしやすくなった。そのせいかよく眠れたような気もする。割と強もみだったのだが、今回はちょうどよかったような気がした。定期的にメンテナンスすること。体を緩めてあげること。日常的にしてあげたいなと改めて思う。イベントごとがあるからと体調に気を使うのでもなく、日常的に心地よく入れるような工夫を。ライブが近かったりするとマスクして寝たり、首にタオルを巻いて温めて寝るようにしてあげていた。それはそれで心地よく眠れたのだから続けてあげたほうがいい。心地よくいれるための工夫が日常的に必要なのだ。後回しにしてはいけないこと。

 

餃子

 晩御飯は餃子を作りたくなり材料を買いに行く。材料をみじん切りにして、調味料などを加えてこねこねする。あのこねてる感触が良い。なんかこねてる感じがたまらん。脳に良い刺激がくる気がする。手から伝わる刺激を大切にしたい。手を飽きさせないことだ。手には多くの神経が通っている。脳に伝わる。手を楽しませてあげること。つい餃子は作りすぎてしまったが、おいしく食べることができた。

 

ゾロ目

 11時11分。ちょうど。ゾロ目。連なり。連続。1と1と1と1。いつか8になる。11日。数字が示すものとは。数字の意味をたどること。たどり着く先は点。数字と隣り合わせ。何もかもが数字に置き換わる。長さ、高さ、重さ、度合い、質量。置き換えることで理解できるのか。数字に頼る。助け合う。否定できない。数字に反応。躍動。666文字。またゾロ目。ゾロ目に反応するのはなぜ。連なりか連続性か。700文字。ちょうど。ぴったり、奇跡的、歯切れ良い。区切り。スタート。終わりのはじまり。またはじまる。永遠に、どこまでもどこまでも。それでも人間には終わりがあるようだった。人生には終わりがあるという。死ぬからだという。それは本心だろうか。終わりを迎えるとはそういうことだろうか。だから後悔しないように生きなさいという。死ぬまでにしたいことを考えてみなさいという。私は88歳。そこが終わりに設定。変わってもよい。あと60年ある。長いと感じる。このままでは長い。このままでは永遠。それでも近づいている。そこにたどり着いた時死ぬのだろうか。私は残る。対話のきっかけとして、トリガーになる。生前パウルクレーは「芸術の本質は、見えるものをそのまま表現するのではなく、見えるようにすることにある。」と言った。これは生前の言葉であるが確かにここに生きている。さらにクレーの墓石には「私の住処は死のうちにだけあり、未だ胎内にある。」と書き残した。「創造の鼓動がよく聞こえるが、十分に近いわけでもない」私たちは死を恐れているが、死こそがもっとも自然な状態であり、何者もよりも美を追求した結果だった。そのさきにあるのは何もないと青年は言った。無だったと。ただ何もなかったと死の病に立たされた彼女に対して青年は叫び、訴えた。青年は臨死体験を経験し、そのことを言っていた。彼女は恐れていなかった。趣味は葬式を巡ることだったし、死について興味を持っていた。死について考えれば考えるほど、恐怖とは程遠い存在であると悟り始めていたのだ。私たちが恐れているのは老いについてだろうか。若さを作ることは重要か。若さは内面から湧き出るものであった。性格のようなものだし、漂いのようなものだった。それは自然な状態だったし、死は胎内に還る儀式のようなものだと男たちは言った。これは儀式。習慣。訓練。日々の連続。その延長。その先に。また繰り返す。そうやって前世の記憶。語り尽くす。覚えていることがある。それは質感としてであるし、体の反応としてである。明確な記憶を語り尽くすことは私には出来ないが、ただ反応としての記憶を記憶している。だから私は反応に反応しながらただ書き記すことにしている。これは文章なのだろうか。どうやら何もかもの文体を放棄していたし、私は何を持って文章になるのかと定義することはできない。それでも今書いているのは文章と言える。そう定義することができる。詩である。守られなかった約束を果たすためでもある。それは約束ですらなかった。私たちは作品によって出会う。それ以外の出会いは、散歩で十分だった。散歩していてたまたますれ違う。その出会いで、その挨拶で、その掛け声で十分だった。その呼吸こそが、大地であり風だった。果たされなかった約束は今こうして書くことによって、描くことによって、そして歌う。それが約束を果たし、あなたと出会うための最たる手法であった。出会い方、コミュニケーションの取り方であったのかもしれない。人前に現れるならただ歌えばよかったし、両手でギター。上から下に、それだけで十分だった。それは声を誘発させる作業だった。より、刺激、衝動、宇宙のビックバン、爆発、破壊、創造を生みだすための行為。それが歌によってなされた。それは周波数、癒し、轟き、奏でて、肩回し、ストレッチ、リラックス。それが効能。温泉。自作の温泉。掘り当てた温泉の効能は歌によってなされる。その効能こそ湧き水。飲み水であり、温泉であるのだが、そのことを忘れている。遠いどこかへ行きたいと願うあなたの、衝動、感動、探し求めていたのだが、感動は自らが生み出すことを知っていたし、未知の体験だと言うが果たしてそれは真実なのだろうか。忘れていた記憶に過ぎないのだ。体験は装置に過ぎない。感動を誘発する、揺さぶる、呼び覚ます、太古の記憶、意味、使命、命を使う。大げさなことではなかった。大きな意味を探すことだった。大義と言ってもいい。それは隠された鍵、箱。勉強机の中に隠した、宝物。掘り当てられない、自分だけが知っている、宝。豊作豊作。稲はこうべを垂れて、おじぎ。向かっておじぎ。それが挨拶。私たちはそうやって対等。上も下もないと言う。対等を語る時点で既に不均衡を生み出す。その前提を覆せ。自らの内面のみで現せ。それが創造であった。前提を疑うしかないのだ。前提が覆ったその時に私たちは気付き始める。影響など及ぼさない。ただ静かにうちに向かう。これが日記。日々の記述。論文。卒論。人生からの卒論。語り尽くす。語らない。多くを語る意味はなし。語るならば手を。

 

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展示が終わって疲れていたが割と良い状態を保てている気がする。

よいよい。