溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171013

爪やすり

 爪やすりをかける。爪切りについているやつだが、細かく削れて行く。粉のようになる爪。それも爪。粉なのか爪なのか。吸い込んだらそれは爪か、それとももう名称もないのだろうか。ギターをするので右手の爪を伸ばしてみている。伸び過ぎてしまって引っ掛けて痛かったりすることがあるのでメンテナンスが必要。心地よい長さというものがあるようだ。なんでもそうだが、絶妙なバランスのところが心地よかったりする。爪で言えば短過ぎても、長過ぎても心地よいとは言えない気がするのだ。バランスを探す。折り合い。妥協ではない。お互いがより気持ちよくなるための折り合いである。妥協しあった時点でもう何も生まれないし、関わる意味もなくなってしまう。我慢した時点で何もかもが終わりだ。その時点で立ち止まるべきなのだ。我慢を生んでいるのは自分自身であるが、我慢を押し付け合うのはなによりも不健康である。便秘の状態が良くないことをわかりながらお互いが便秘を押し付けあって何になるのだろうか。快便と快便同士でなくては意味がない。そうなるようにお互いが努力する。それは努力というよりは当たり前の行為であり、人間同士を尊敬し合えば成り立つことであった。なぜ本音を語りなさいと言われることが重要なのかはここにある。お互いが気持ちよくなるためであり、より良いものを作り出すためである。それは社会か、国か、世界か、地球か、宇宙か。創造的であろうと言っている。折り合いの意味を履き違えてはいけない。譲り合うのではなく、重なり合うのが折り合いなのだ。折り合わさるのである。相乗効果である。螺旋階段。空へ伸びて行く。どこまでもどこまでも。上ではない。曖昧に上といってはいけない。空と言いながらもそれは広がりでもあった。私たちには心の広がりというものがあった。広い心などという。それこそが感性。豊かさでもあった。伸びやかさ。忘れてはいけなかった。遠い昔にある風景。原風景。原風景を持たない人などいないはずだ。田舎のような風景だけが原風景ではないのだ。コンクリートであろうが、駐車場であろうが、ゲームであろうが、そうやって人が作り上げた状態もそれは原風景であった。しかし、さらに記憶。深堀。見たことのなかった、森に、海に、空に、湖に、川に、田んぼに、畑に、山に懐かしさを感じるのはどういうことなのか。それが声である。それこそが声。うなり続ける、静かに轟く、雷、風、記憶、覚えているのである。私たちが生まれ育った場所を。それは生まれ故郷とは違う、生命自体の記憶である。細胞であるのだ。私たちは無意識。それをそのままに扱えば、皮膚は破り捨てられ、けもののまま踊り狂う。理性を持ち合わせた意識。意識が押さえつける。無意識は奥へ奥へと追いやられた。どちらも必要であるのだが、それがどうもバランスを崩していることを気づいていなくてはいけない。放っておいてはいけないのだ。どちらも必要であるのだ。知性と感性。どちらも循環、巡り巡る。人生。生と死どちらも存在し共存。ありとあらゆる自然。万物の神。精霊。呪術。召喚獣。生み出した幻想。動き出す幻想。飲み込まれる魔術。食い物にされる幻術。そうやって生み出してきたものを抹消した。これはリストからの抹消であった。私たちはリストによって管理され、名前、性別、国籍、住所、個人番号など一括管理されている。そのリストから抹消された時、私たちは生きているとは言えないのだろうか。この世には存在している事になるのだろうか。それでも確かに男はそこにいたし、かと言って亡命したのだった。それは勇敢な決断だった。踏みとどまるよりも、逃げる道を選んだ。危険な状態だったからに過ぎない。そこにいては肉体もろとも滅びてしまうことを察知していたのかもしれない。しかし滅びていたのは精神だった。外圧的なものだった。弾圧されたのだ。それは組織によってだった。退廃芸術。そうやって海外へと作品は流出。危険な状態だったと言った。亡命した男は創作活動を続けた。絵を描き続けていた。その姿勢は呪術。召喚獣を呼び寄せる行為。天使から伝言。天使は忘れっぽかったのだ。それでも男は天使を呼び寄せ続けた。それは魔術の一つであった。私たちが魔術士である、呪術師である記憶を思い出させる一因に過ぎない。それは一つの例だ。

 

パスタ

 みーさんのパスタが絶品だ。キャベツの和風おろしパスタにきのこクリームパスタ。どちらも美味。パスタの魔術師。みーさんにかかればパスタの可能性は無限大なのだ。僕はただ「美味、美味」と言いながら食べ続けるのである。あるものを無駄にしないことであったり、あるものからクオリティーの高いものを作る精神はみーさんから学ぶべき点である。僕はないないと嘆き始めるところがある。みーさんは譜面台がなければ作り上げるし、落としてしまった洋服を拾い上げるクレーン式のフック、余った布でカーテンを作る。ゴミ箱もダンボールに彩りを加えて作る。味気ないゴミ箱が大切な作品に変わる。玄関マットも布を裂いて作り出す。編む。丸い形でそこにみーさんの世界を縫いこんで行く。すると白い丸の中にみーさんの優しい世界オアシスが広がるのだ。そうやってものを作っているようで空間を作っている。僕の行った展示に関してはみーさんの力によるところが大きい。僕一人ではできない空間なのである。みーさんにはあるもので何もかもを生み出す魔術と空間を広げる呪術が備わっている。魔法使いなのだ。多分昔っからそうなのだ。なんだってできてしまうし、生み出してしまう。僕は感心しながらその姿を眺めつつ、絵でも描いているのだ。僕は内面を現し続けることしかできない。ただその連続なのである。僕の行っていることはまったく無価値に思えてしまうのだが、自分を殺さないための手段のようなものでもある。書くこと、描くこと、歌うこと。誰でも出来ることの中に生き残るための知恵のようなものがあった。それは空間だったのだ。まったく別の空間を自分の内面に作り出すという行為だった。表出させると言ったほうがいいのかもしれない。居場所作りであり、巣だった。家のようなものだ。だから建築家であるのかもしれない。目に見えないものを見えるようにしている。それが空間。立ち上がる。それが僕の出来ることなのである。

 

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内面を現し続ける。

これは救済活動でもある。

対話ではないのかもしれない。

 

今日は雨つよめ。