溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171014

 雨が降り続いているが悪い気分でもなく、むしろ嬉しい気持ちが湧いてきたりもする。雨の中で踊る人もいれば、歌う人もいる。ミュージカルだってある。雨にはミュージカル性が潜んでいて、陰鬱な気分でそれを見れば害にしかならないのかもしれない。隠されているのはいつの日も私たちの内面にあり、それが反応であった。だから反応に反応しながら私は書いているし、それをどうこうと伝えるというよりは、ただ必要なものと捉えて続ける。これは治療である。私は治療家。だった。心理療法かでもある。心身を調律している。それは私が見出した方法でありながら、多くの人が知っている方法。対処療法。対処でしかないこの療法は連続して対処し続ける。思考回路の逸脱。抜け道の発見。脱獄への関与。それが日々行われ続けているのだが、それを知る人は誰も存在していない。これは私の内面で起こっている話であり、真実でもあった。外で起こることが真実ではないと言っていない。外で起こることすらも私が引き起こした真実であると言っているのだ。それは集合的な無意識であった。私たちが奥へ奥へと追いやった現実を今目の当たりにしているだけであるのだが、その罪をなすりつけることが常習化。取り締まるものはいない。つまり今国は無法地帯と化していた。警察の取り締まりは点数によるもので、交通の取り締まりをしていると見せかけて姿を隠して潜んでいる。堂々と表には立たない。それでは違反が起こらないと考えているのかもしれない。事故を起こさないため、違犯を起こさせないため、安全のためであるのなら堂々と表に立っていればいいものの、そうではなくひっそりと身を潜めて違犯したものを追跡。それは点数。数字で管理された状態。何もかもが思考停止。これは薬物取り締まりに関しても語ることができた。都合であることを忘れてしまった。夢の国。まさに夢の国だった。そこは灰色の街。そこに幻想を振りまいていたのだが、その事実を知らない。それは国家機密でありながら、民に知らされたミュージカル。パフォーマンスであった。私たちはパフォーマンスを観ながら喜ぶのだが、私たち自身がその一員であることを忘れているようだった。私たちもまた劇団の一員であるのだ。それをまったく意識させないのが男たちの強みだった。ひっそりと監視、管理を続けていた。私たちは気づく余地もなく、無意識でダンス、熱唱を繰り返す。これは作られた技術であり、それを正確に現すための訓練が日々続けられていたのだ。脱獄して行くものは変人、精神異常者として揶揄され、民と距離を置かれた。そうやって私たちは劇団の一員であることを無自覚で確固たるものにしてゆく。除け者にされたものたちは、病院に送り込まれた。病名、病名、病名。病名に次ぐ病名。来るものたちが病名に当てはめられていった。統合失調症鬱病双極性障害パニック障害、不安障害、薬物依存症、アルコール依存症、パーソナリティ障害。振り分けられた部屋ごとに管理され、カテゴリーごとに薬が手渡されてゆく。ここでは意志というものは重要ではない。意見や見解のみが最重視される。そのことに文句や不満を漏らすものはいまではいなくなっていたが、病名をつけられたものたちはまた別次元の世界で生きていたのだが、医師はそのことに気づくこともない。分裂させてはならない、分裂させてはならない。その一点張りであった。一点張りが続く医師に対して病名をつけられたものたちは触れること、聞くことに徹した。とにかく抱きしめあったし、話を聞いた。話が終わるまでじっと待ち、最後は握手をして抱き合った。ただその行動だけが繰り返されていた。医者の中から、病名をつけて欲しいと名乗り出るものもいたが、医者はそのことを許さなかった。それは威厳に関わる問題であり、決して許されるものではなかったのだ。その行く末は決まっていた。モルヒネの大量摂取による事故死と断定された。

 

質疑

 雨はまだ降り続いているのかと男は聞いたが、返事をするものは誰もいなかった。あまり構うそぶりもなかった。ただ聞きたかっただけであったし、自ら窓を開けて調べる気もなかった。ただ音はしなかった。聞いてみただけなのかもしれない。男はそうやって質疑を繰り返していた。「雨は降っているか」男の質疑はその一点に集中していた。討論でも対話でもなかった。「雨は降っているし、止んでもいる」と男は言った。「雨は登っても行くし、降りても来る。俺たち次第さ。俺たちの都合よく雨は操られていると思い込んでいるが、雨は俺たちを混乱させる。雨は俺たちを道具としてしか取られていない。着陸、離陸、雨はその繰り返しだったのだ。」俺は叫んだ。雨に向かってなのか、水たまり向かってなのか、雲に向かってなのか分からなかった。もうそのとき雨は存在していなかったし、姿形を自由自在に変えていたのだ。

 

爆発物取り締り法

 爆発物取り締り法。これは漏れ出さないための法律だった。エネルギー問題について問われた法律のようなものだった。私たち自身が爆発物であることを示す記載がここにあった。それは壁画だった。洞窟で描かれた絵のようなものだった。そこには人や鳥などが鮮明に描かれていたが、それが爆発の起源であった。そのころはまだ小さな爆発が続いているだけであったが、次第にその爆発は規模を拡大して行く。勢力が上がったわけでない。ただ個人の爆発物の量が増えたのである。もう個人レベルでは抱えきれない量になってきた時、爆発物は自ら火を灯すのである。そこには意志があったのかと問う人間はいない。ただ量の問題だったのだ。もう抱えきれないほどの爆薬が体に巻きつけられた状態なのだからたまったものではなかった。気付かぬものもいる。そのことに気付かぬものもいれば、気づくものもいる。それは情報量でもあり、どれだけ不安を抱えているかという問題でもある。時には不安の元にある爆発物を点火するという事件が勃発する。そこに悪意があったのかと言われればそれは疑問であり、完全に武器と化しただけであった。そこにもやはり関係性というものが目につく。関係性が点火という事態を生むのだ。それが自分自身の場合もあれば、他人である場合もあるのだ。

 

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涼しくなってきたので腹巻き必須。