溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171021

光景

 彼の見ていた光景を見過ごしてはいけない。彼は電車に乗り込み、どうやら一人式の終わりの帰り道。不機嫌な様子を浮かべていた。彼は彼自身が正しいと、この感情こそが全ての答えであるとそう思っていたわけであるが、彼らの意思とはまったく違った方向へと進んでいくのだ。彼らはただ微笑んでいたし、敵対視もしていないし一人にするつもりもないのだ。彼らは追いかけようとも考えたが追いつくことが出来なかったのだ。すでに電車に乗り込んでいたし、不機嫌な様子も察知していた。過ぎていく電車を眺めていた彼らにとってはそれは大した問題ではなかったのである。しかし彼はそれが大きな問題であると認知し、問題を握りしめているのだが彼には悪気といったものはまるでなく、そうであるならば一人であるべきと、それが役割であると息を巻いているのだからたまったものではない。彼は操作されていたのだ。彼自身に操作されているのだ。機械は自動操縦。彼は操縦していることに気づいてはいない。すべては機械的であり、口はただの接合部であり、排泄物は通り抜けていく。機械的にただ仕事をこなすのみであり、彼自身がその一部であり、彼という存在を否定しているわけでもなければ、是亭するわけでもなかった。ただ彼は機械の一部であり、さらに言えば彼らもその一部であるのだ。自然を崇拝するあまり、自然から成り下がってはいけないのである。自然は自然にしかなり得ないし、人間は人間にしかなり得ないのである。しかしそれもまた機械の一部であるということが彼には付きまとうのだ。「誰だ。お前は誰だ。」語り部は言う。語り部はただ問いかけるだけであった。それ以上のことは言わない。結局、彼もまた縋っているのだ。彼は独立運動を志した。それは人類であり、それは人個人のことを指していた。新たな国を生み出そうとも考えないし、ただ奴隷解放宣言を繰り返す。しかし彼が矛盾しているのは彼自身が独立しているわけではなく、それはただの意志の行く先についてであり、彼は全くもって依存していたのだ。完全なる自立とは、完全なる依存から成り立つのであり、そうなってくると独立運動奴隷解放宣言といったその行方はどこに落ち着くと言うのだろうか。そのように彼は運度を続け、宣言を続けていたのだ。これは公に行われていた動きであった。しかしこれは内面でのみ機能する機械的な行動だった。彼は彼であることを否定していたし、彼女でもあった。彼と彼女の関係性についての着目が繰り広げられる。論争ではない。議論からは何も生み出されないと断言。そうしてまた議論は繰り広げられるのだ。口を紡ぐことだ。口を開くことで何もかもがこぼれ落ちていく。こぼれ落ちたものは廃棄物としての道を辿るしかないのだが、処理するためのスキームはまだ完成していない。彼の住む街は無法地帯であり、法律は人を守るためでも、憲法は国家を縛るためでもなくどちらも捌くために、欺くために存在していた。知識ある人間による迫害であるのだが、知識ある人間の意見からすると無知は悪なのであり、そうして無知は悪魔の一途を辿る。無知であることへの罪悪感から騒動は絶えず繰り返される。爆弾の投下、銃の乱射、乱射。それこそが無知であると知識人の議論。無知の暴動。操られているのは無知人ではなく知識人であることをに知識で気づくことはできないのだがそのことを知ろうとはしなかった。しかし現に爆弾を投下、銃の乱射を繰り返し続けるのは無知人であるが、それが病棟へ。これは実在する争いであるが、心臓を打ち破り、肺、小腸、大腸、筋肉、骨までももろとも崩れ去っていく。機械として機能を失っていると彼らは叫んでいたが、実際の所機能を失っていたのはその発狂であり、爆撃でも発砲によるものでもなかったのだ。包帯で全身を埋め尽くされた男はうずくまっていたが、思考は永遠と続く。「思考こそ抜け道、思考こそ脱獄への一歩」そうやって唸り声をあげる男に思考などあるのか、と医師たちは口を揃えて診断と薬の投与を続けるのだが、男の思考は抜け道への先へと続く。しかし包帯こそが男をつなぎとめる原因であった。これこそが原因である。狂っているのは振る舞いであり、意志ではない。それは機械的な運動に過ぎない。狂気的であるのはいびきと何ら変わらないのである。ただの疲労。確認すべきは勘違いであり、認めるべきも勘違いであった。争いの大半が勘違いから起こるものだと彼は言う。批判こそが勘違いであるのだ。「議論などしている余地もありません。」そうやって口を開く人間を信用してはならないと彼は言い続ける。この点で最も信用ならないのは彼自身であるのだが、彼はそのことを認知している。そのためどもり続けるしかないのである。口を開くたびに襲ってくるのは、震災だった。地震地震地震。口を開くたびに何もかもが揺らぐのである。口を開いたその瞬間にこぼれ落ちる、確信、自信、信頼。揺れる、揺れる。彼はどもる。どもり続けた。それこそが機械の運動であり、最も信頼できる描写である。その音楽こそ信頼すべきなのだと彼らも口を揃えて言うのだ。観客から起こるのは多大なる歓声と拍手。彼はその間もどもりによる身体表現、ダンスを続けるのである。舞台から降りた彼はまた布団へと戻る。病棟へと返り咲く。賞賛ではない。連行に近いのだ。「牢獄へぶちこめ」これは知識人による言葉であるが、彼自身が述べた証言でもあった。そうして牢獄から眺めるのは無知人による労働に次ぐ労働。これこそが奴隷への近道。牢獄の中で彼が叫ぶのは奴隷解放宣言であり、独立運動を開始する。彼はまた再び牢獄からの脱獄を試みる。始めたのは避難誘導であり、脱獄とは言い難い行動。避難経路は牢獄へと続く。それこそが自由、それこそが知識、それこそが祭り。牢獄の外では混乱が生じるが、果たしてどちらが牢獄であるのか。牢獄であるはずの奴隷社会はまた彼を牢獄へと閉じ込めるのであるが、閉じ込められたその環境こそ彼が奴隷解放宣言を告げる場となり、環境となりうる。それは関係性であるのだが、彼は監獄の中でただ暴動と混乱をつづける。そこにある終戦。白旗をあげる。そしてまた奴隷解放宣言へと続くそのやりとり。それこそが暴動であると知識人。その迫害を受けていた。

 

f:id:mizokoji:20171021122819j:plain

壁、傷、痕跡。

反応すること。