創作と探検の日記。

文、絵、歌、布など自給しています。

20171022

語り部

 彼は怒っていたわけではなく悲しみの先にある涙の誘発。その先にある言語に触れることで、また概念の創造。これは芸術という概念を再構築する試みである、変換器、拡声器の役割でもある。これこそが生き延びるための技術。延命作業である。外的要因はそのために存在する。それは創造を誘発するための装置でもある。鬱屈としたその涙の先に隠された言語、概念。彼が墓石に刻みつけたことを解析する。

 

『芸術とは生き延びるための技術を創造し伝えることであります。
生き延びるための概念を作り続けることなのです。
 
埋もれていた言語による概念の創造。
 
表層の怒りを超え悲しみ、涙した先のその言葉。
その先を漂い続ける言語に耳を傾けなくてはいけない。
 
それこそが魂である。
死者たちの声である。
 
社会は変えるものではなく、作るものである。
アスファルトの上でどんなに叫んだところで表面だけ移り変わるだけである。
大切なのはアスファルトの下にあるその土、土壌の中で語り合うことである。
 
無視してはいけない。
無視してはいけないのである。
 
戦争は終わったのか?
今は戦時中である。
多くの人々が日々争いを続ける。
それは他殺、自殺と様々な形で表出する。
 
むしろ表面的に行われていたその戦争の方が分かりやすく、もはや今は陰湿であり隠蔽された状態。
 
争いは内面へ。
誰かを攻撃するか、自らを攻撃するのか。
エネルギーの総量は変わらない。
無視による無意識の暴動である。
 
表層に現れる事柄をなくそうと試みること。 
例えば、大人ですら未だにいじめは横行しており、それは言葉や暴力よりも、陰湿で、行き場もなく、じわじわと人の生命を侵食していく。 
無言の重圧として日常生活を蝕むのである。
 
教育とは無くならないものを無くそうとすることではない
教育とは現実すらもはねのける、自らの空間の創造技術を伝え実践し続けることである。
絶対的な居場所、絶対的な家、絶対的な巣、そういった空間を創造する技術である。
教育者こそ圧倒的な芸術家でなくてはならない。
 
そして創造された芸術空間及び作品により、現実との交易を試み続けることである。
 
文章を絵を歌を踊りを見せてはいけない。
その先にある生命を見せるのである。
 
見せつけるのである。
その先に嫉妬が生まれ、眠っていた湧き水は溢れ始めるのである。
 
それこそが生きる強さであり、弱さなのだ。
これは現実逃避ではない。
徹底した生きる術の習得である。
そしてそれは伝え続けなくてはいけないのだ。
 
「死ぬな。」
 
生き延びるための抵抗。
それが芸術家の仕事である。』

 

 これは墓石に刻まれた言語であり、概念である。決して失われることのない日記であり手紙でもある。それが終止符ではなくどちらにせよまだ線の中を漂っているのだからそれは致し方ないことである。流れ行く、洪水によって流れゆくのである。それは波であり、涙の誘発。仕草。余韻であった。いかにして生き延びるかを伝える術を持ち合わせていない。それが教育であるのだからと嘆いていても仕方ないことであるのだ。なくならないものを無くそうとするな。全く別の創造的な空間による交易から学び続けるしかないのである。どれだけ崩されようが何度でも建て直すことができる。その強さと、圧倒的な弱さの中で漂い続けるのである。決して生命への批判ではない。それは場所を選ばずに生み出される子供の声に近い。そこには生命が宿る。そこにこそ生命の漂いを感じるのである。しかし、その声はかき消され、遠くへと、遠くへと、ないものとされかき消される。その声の持ち主こそ家族である。家族の声にそれは声なき声に耳を傾けなくてはいけない。家族という概念を構築。家族から生まれる、概念。創造。夢、語り部の存在。部屋の中で漂う。すれ違う、交錯、手から生まれる会話。想像を膨らませること。その家の物質の成り行き、経緯、存在意義の世界。それが彼女らの存在。彼女らの永遠に行われる創造。語り尽くすのである。とどめておいてはならない。どこまでもどこまで広げるべき語り部の存在である。止まることのないその衝動、想い、流れ流れ、それを受け止めることができるのはそのキャンパスであり、その紙、鉛筆一本で世界は構築されていくのである。それが彼女らの空間であり、芸術そして美術である。彼はその空間を垣間見たその時に恋に落ちていたし、一目おく存在。天才を垣間見たのである。これこそが才能であり、彼は心酔するその世界。世界観によるゆりかご。そこでの安眠は約束されていたのだ。とどめておくことが惜しい存在であったのだ。この大きな才能、溢れるエネルギーを受け止めきれるほどの容量が彼には存在していなかったし、まったくもって0と言っていい。それにもかかわらずその才能を全身で受け止めたいと感じているのはそれは感情であろうか。感情が動くのである。それをぶつけることもあれば止めることもある。言葉に意味はない。ただその場で溢れるエネルギーに意味がある。それは怒りでも悲しみでもない。ただ魂の声である。それこそが死者の遺言、受ける、受ける、受けとめる。クレーの絵から漂う死相感。生命。その漂いを感じ取ることである。それはドローイングから漂う。その線に伝う意志を、生命をどれほど受け止めることが出来るか。彼らの役割はそこにかかっていた。どこまでも受け止めそして昇華。華々しく、また紙へ、キャンパスへとつたう。それは雨の様子。雨粒が頬を伝うその瞬間に感じた声と近い。名前など欲していない。しかし、その哀愁。漂い。本心。生命であること。静かに、そっと語りかけるのである。語り部はまた舞台に上がり、語りかける。世界の創造。世界観の創造。インスタレーション。空間による対話。対話ですらない。感じあい、まぐわい続けることである。これは革命ですらない、改革ですらない。表層ではない。表面ではない。表すべきは内面、その土壌。そこで埋もれる生命、死にゆく生命の声に耳を傾けることであるのだが、それは未だに無視され続けているのである。どんなにアスファルトの上で罵声を繰り広げようとそれはただ空中分解、花火。打ち上がる花火を、内面で描き、あの儚い、消えゆくあの幻想の中。そこにある残り火を手繰り寄せることである。目の裏にある映像、その奥の心臓から伝うその振動。そこにある生命に耳を傾けることである。

 

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台風来るらしいのです。

お気をつけくだされー。