溝井孝司のちゃらんぽらんちゃん。

詩的な日記小説です。児童文学みたいな人が書いてます。

20171023

恐怖と期待

 彼は風に対して恐怖を抱きながら期待をしている。これはどちらも内在しており、捨て去る必要もなければどちらかに統一する必要もなく、ただ迫り来る死に対して恐怖を抱きながら期待している様となんら変わりはなかったのだ。必要なことは一瞬で飛び去ることである。男でありながら女であり、子供でありながら親であることだ。生きながら死ぬことだ。どちらも内在しながら、死んでは蘇りを繰り返す。それは瞬間移動である。途切れる間も無くどちらにも。端から端へと移動の連続。留まることを期待してはいけない。どちらにも揺れ動く。瞬間と瞬間、切れ目を見出すことはできるか。その瞬間と瞬間のその間を発見。その無であり0の状態。主観であり、客観。その曖昧さ。曖昧さこそ最大のまぐわい。統合がもてはやされる、切り捨てられる一方を、内在させることを選び取ることである。それは統一ではない。健常者であり、障碍者である。存在は?その存在は社会から生まれている。これは大衆による巧みな誘導である。

 

台風

 台風が過ぎたが相変わらず風は強いようだ。すっかり薄暗くなった。眠ることがあまり出来なかったのだが、緊張と安堵の狭間で揺れる。忘れることはできないが忘れる。風が生み出す音への恐怖と予感。眠りながら目覚め続ける。状態は続く。みーさんが寝言を言う。「嘘つき、嘘つき」そのことに驚き、緊張感はピーク。その時、目を閉じていたし、眠っていたようだが、起きていた。意識はあるがなかった。足はムズムズするし、体が休まるような感覚はないが、安らいでいる瞬間が訪れてもいた。ようやく眠りについたのはもう日が昇ってからであったし、その後眠ったかどうかはよくわからなかった。それでも眼が覚めて起き上がるのだが、未だに眠ったような状態が続く。

 

生き残った場合と死んだ場合

 台風が来ることを当日知り調べると思いの外勢力が強いと知り少し不安になる。雨足が強くなる前に買い出しに行こうと考える。鎌倉では頻繁にマイクを通して警報などを知らせている。その音が不安を掻き立てるわけである。もしかしたら死ぬかもしれないし、今日が最後かもしれないとみーさんと話し始める。とにかく明日、眼が覚めた時には命がないかもしれない。ということは目覚めていないということであり、死ぬとしたらトークを繰り広げる。ドーナツが食べたい。今日死ぬのならドーナツが食べたいこれは満場一致である。そしてお風呂に入りたい。せっかくならお風呂に入って気持ちよくなっておきたいと思ったのである。絵を描くこと。そんなことを話し合う。そして買い出しへ。水などは購入しておく。保存がききそうな食材なども買い足す。結局生き延びた際に被災した最悪の状況を考えながら死ぬことも考えるという状態。ドーナツ屋さんにも「今日死ぬとしたらドーナツ食べておきたかったのです」と伝える。「来世でも会いましょうねー」と笑顔でお見送りされる。きっと来世でもまた会うのだろうと思いおかしな気持ちになる。

 

競合

 台風は嫌いではない。むしろ彼を興奮させるようなところがある。強い風と吹き付ける雨の威力に立ち向かおうとすらするのである。しかし彼は臆病でもある。心底恐れてもいるのだ。彼は静けさを好むが静けさに恐怖を抱く。見られていると感じるのである。絶対的な力がそこに存在しており、太刀打ちできない、敵うはずがないと力なくへたり込む。それにもかかわらず自然は自然であり、そこに敬意を払い、自然になりながら、自然と競合することであった。なり下がろうとは考えなかったし、また上であるとも考えない。ただ競合し続けることだった。争うわけではない。

 

美術

 近づいている、近づいている。足音か、それは狼の遠吠えでありながら彼らの内面である大地、その土壌の叫びであったのだが、巻き付いたのは鎖。引きちぎるための肺。男は旅芸人であった。女ひとりを連れ旅をしながら芸を披露する。女に芸を仕込み、女は瞬く間に振る舞う、太鼓、トランペットに加え、草笛による協奏曲を奏でるのだが、男は力ずくであり、その鎖に縛られた状態を幾度も引きちぎり、そしてまた自らを鎖で締め付ける。これは本人が望んでいるようであったのだ。そうやって希望通りの物語を描き続けるのだが、まったく抵抗することもなかったし疑問を抱くこともない。なんだっていいのだ。ただ遊んでいるようだった。彼女は、ただ遊んでいるだけであった。意見やアイディアを聞き入れ、そしてまったく別の行動を起こす。そのことを知識人たちは否定する。アイディアを聞き入れないことは自尊心の欠如に関わるからであり、その通りに動き回ることが何よりも重要なのであるが、そうでない場合はまったく欠陥として扱い始めるのであるからたまったものではない。彼女はまた深みへ、それは身体表現、非言語による対話である。触れ合うこともなければ、ただキャンパスに動きを踊りを描いていくのである。キャンパスの沈黙こそ最大の音楽である。彼女はそのことを理解し、キャンパス或いは紙、布に至るまで扱う幅は無限大であるが、制限を決めてはいけない。有限である、無限であると決めつけることはナンセンスであり、ただ注目すべきはその行動のみである。風が吹くたびに、この一瞬一瞬に彼女の風景は変貌を遂げる。それは天使であったはずの隣人、または家庭内において、悪魔とかしその関係性についてを問い始めるのである。これは記者会見による暴動だった。記者による質問に対して男は無知の排除を試みる。説明はしない。存在すらも否定。知識を活かした防御であったのだが、体の反応はいかに。彼女はその反応に対して最も敏感であり、それは触角であり、そこから膨大な情報を仕入れては、もっとも美しい状態へと空間を作り変える。空間を生み出し続けるその様はまさに美術家であり、美の追求は留まることを知らない。一般的に言われている美ではない。美容ではないのだ。美容は上塗りに過ぎず、彼女の美は、心地よく生きるための術である。快適な環境を作り続ける。芸術がなまなましい生命の鼓動だとするならば、美術がその心地よい鼓動の連続性であり、それはどちらも芸術であり、美術であるのだ。切り分けることなどできないが完全に切り分けられている。彼らは大人でありこどもであるし、生きているし死んでいるのである。その瞬間に死を迎えてはまた行き続ける。その錯乱、分裂こそ語り続けなくてはならない。それが宿命である。

 

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昨日はすっかり眠れなたったが、今日はぐっすり寝れたらよし。